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『行人』を読み解く

 『行人』は、漱石の後期三部作の2番目の作品です。
 人を理解することの難しさが浮き彫りにされています。
 登場する人物それぞれの苦しみが細密に描かれています。
 「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」
 このような重い言葉が出てきます。
 主人公の兄の一郎が旅行する場面があります。その中に修善寺が含まれています。
 「修善寺の大患」を意識した作品ということができます。

「友達」編

あらすじ

 長野二郎は、母から依頼されて大阪の岡田の家に行きます。岡田は母方の遠縁に当たり、二郎の家で書生をしていた男です。
 二郎は、友達と大阪近辺を旅行する約束をしています。
 岡田にはお兼という奥さんがいます。岡田夫婦は結婚して後六年になりますが、子どもができません。
 二郎は、母から依頼されたことよりも、友達からの連絡を気にしてばかりいます。友達からの連絡がないので、岡田の家に泊めてもらうことにしました。
 翌日、友達から葉書が届きました。「一両日後れるかも知れぬ」と書いてありました。
 岡田が会社に出勤している間に、二郎はお兼さんに余分なことを聞いてしまいました。「奥さん、子供が欲しかありませんか。」
 「私兄弟の多い家に生れて大変苦労して育ったせいか、子供ほど親を意地見るものはないと思っておりますから」
 その晩に、岡田の口から母からの依頼事項「例の一件」の話がもち出されました。「例の一件」とは、長野家の使用人のお貞と、岡田の会社の佐野という若者との縁談です。お互いに会ったこともないのに双方とも異存がないようです。
 次の日、岡田夫婦と二郎は佐野に会います。二郎は、佐野のことを世間並の人と思っただけでした。お貞と佐野の結婚について、母へは「承諾したら好いじゃありませんか」と報告します。
 友達の三沢からはなかなか連絡が来ません。二郎は腹立たしくなり、明日中に連絡がなければ一人で高野登りに行ってしまおうと決心します。すると、三沢から連絡がありました。なんと、三沢は大阪に二三日前に着いたけれども、今入院しているというのです。
 早速、二郎は三沢が入院している病院に行きます。三沢は元々胃が悪く、それが悪化したようです。
 二郎は岡田の家を出て、三沢が泊っていた宿に泊まることにしました。
 岡田から病院にいる二郎に何度か電話がかかってきました。もう少しすると二郎を驚かせることが出てくるかもしれないと岡田が言います。
 二郎は、病院の廊下の片隅にある女を見出します。三沢が知っているようで、三沢は「あの女」と言います。
 「あの女」は売れっ子芸者です。ひどい胃潰瘍で入院したようです。
 三沢は「あの女」への興味を深めていきます。
 三沢は順調に回復しましたが、二郎との旅行を諦め、退院して東京に直行することになりました。金が必要だと言いますが、その理由が意外なことでした。「あの女」に謝って見舞金を渡すというのです。二郎は岡田から金を借りて三沢に渡します。
 三沢が東京に帰る直前にある気の毒な娘さんの話をします。その娘さんは離婚して実家の方の事情で実家に帰ることができず、三沢の親の世話で結婚したという事情があって、三沢の家で預かることになったのですが、精神に異常をきたしていて、三沢が外出する時に必ず玄関まで送って出て「早く帰ってちょうだいね。」と言ったのだそうです。その眼が、どうぞ助けて下さいと袖に縋られるように訴えていたのだそうです。

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センテンスのピックアップ

自分の結婚する場合にも事がこう簡単に運ぶのだろうかと考えると、少し恐ろしい気がした。(青空文庫 Kindle版 p.17)

長野家の使用人のお貞の縁談のことです。二郎は、何れは自分にも回ってくるであろう縁談というものに恐怖を感じています。

「どうです、二郎さん」と岡田はすぐ自分の方を見た。「好さそうですね」自分はこうよりほかに答える言葉を知らなかった。それでいて、こう答えた後ははなはだ無責任なような気がしてならなかった。同時にこの無責任を余儀なくされるのが、結婚に関係する多くの人の経験なんだろうとも考えた。(青空文庫 Kindle版 p.22)

二郎は、縁談というものは関係者の無責任でまとまってしまうものと疑っています。

その時あの女は忍耐の像のように丸くなってじっとしていた。(青空文庫 Kindle版 p.41)

この女に二郎と三沢は興味を持ちます。

自分は階段を上りつつ、「あの女」の忍耐と、美しい容貌の下に包んでいる病苦とを想像した。(青空文庫 Kindle版 p.41)

潰瘍という言葉はその折自分の頭に何らの印象も与えなかったが、今度は妙に恐ろしい響を伝えた。潰瘍の陰に、死という怖いものが潜んでいるかのように。(青空文庫 Kindle版 p.46 )

「行人」は「修善寺の大患」後の作品です。その後も漱石は胃病に悩まされました。経験を書いたというよりは、その時の漱石の心境が表れているようです。

「・・・・・僕はあの女の病気に対しては責任があるんだから……」(青空文庫 Kindle版 p.46)

三沢の話です。大阪に来て茶屋で「あの女」に初めて会い、胃病で体調が悪いのを知っていながら、「あの女」に酒をたくさん飲ませてしまったというのです。

ただ綺羅を着飾った流行の芸者と、恐ろしい病気に罹った憐な若い女とを、黙って心のうちに対照した。(青空文庫 Kindle版 p.53)

売れっ子芸者の「あの女」のことです。無残な現実を二郎は目の当たりにしています。

彼は元来がぶっきらぼうの男だけれども、胸の奥には人一倍優しい感情をもっていた。そうして何か事があると急に熱する癖があった。(青空文庫 Kindle版 p.58)

三沢のことです。「あの女」に対する感情が親切心なのか愛情なのか分かりませんが、とにかく三沢の「あの女」に対する興味は高まっていくばかりです。

自分の「あの女」に対する興味は衰えたけれども自分はどうしても三沢と「あの女」とをそう懇意にしたくなかった。三沢もまた、あの美しい看護婦をどうする了簡もない癖に、自分だけがだんだん彼女に近づいて行くのを見て、平気でいる訳には行かなかった。そこに自分達の心づかない暗闘があった。そこに持って生れた人間のわがままと嫉妬があった。そこに調和にも衝突にも発展し得ない、中心を欠いた興味があった。要するにそこには性の争いが あったのである。そうして両方共それを露骨に云う事ができなかったのである。自分は歩きながら自分の卑怯を恥じた。同時に三沢の卑怯を悪んだ。けれどもあさましい人間である以上、これから先何年交際を重ねても、この卑怯を抜く事はとうていできないんだという自覚があった。自分はその時非常に心細くなった。かつ悲しくなった。(青空文庫 Kindle版 p.61)

この章のタイトルは「友達」です。二郎と三沢は親友といってよい間柄のようです。しかし、人と人との関わりはこのようなもので、所詮はバランスを保つことでしか「親友」と言える関係を続けることはできないのかもしれません。二郎の言うとおり悲しいものです。『吾輩は猫である』の「猫」が言っています。「猫の事ならやはり猫でなくては分らぬ。」それと同じかもしれません。自分以外の人を完全に理解することはできない以上、完全に信頼することなどできません。悲しいことです。相手に何かを求める(相手が何かをしないことも含めて)以上、言い換えれば、人と人の間に利害損得が存在する以上、完全な信頼は存在しないのかもしれません。

三沢に感傷的のところがあるのは自分もよく承知していたが、単にあれだけの関係で、これほどあの女に動かされるのは不審であった。自分は三沢と「 あの女」が別れる時、どんな話をしたか、詳しく聞いて見ようと思って、少し水を向けかけたが、何の効果もなかった。しかも彼の態度が惜しいものを半分他に配けてやると、半分無くなるから厭だという風に見えたので、自分はますます変な気持がした。(青空文庫 Kindle版 p.71-72)

三沢が、今夜の東京への帰りの電車の中で何だか「あの女」の夢を見そうだと言います。二郎には、三沢の「あの女」に対する思いが、愛情なのか、同情なのか、他の理由があっての特別な思いなのかどうもよくわかりません。

「気に入るようになったのさ。病気が悪くなればなるほど」(青空文庫 Kindle版 p.76)

東京に帰る前の三沢の話です。ある精神病の娘さんを三沢の実家で預かっていたことがありました。その娘さんに対する三沢の感情を二郎に話したものです。
感傷的な三沢です。愛情に近い同情とでもいうのでしょうか。その娘さんは死んでしまったそうです。

「あの女の顔がね、実はその娘さんに好く似ているんだよ」(青空文庫 Kindle版 p.76)

感傷的な三沢は、気の毒な女性の顔に共通の何かを感じ、しかもその何かに惹かれるようです。

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「兄」編

あらすじ

 三沢を見送った翌日に二郎は母と兄夫婦を駅に迎えに行きます。もう少しすると二郎を驚かせることが出てくるかもしれないと岡田が言ったのはこのことでした。
 縁談の件があるのでお貞さんも連れてくる予定でしたが、体調が悪く、お貞さんは来ませんでした。
 二郎は、泊まっていた宿を引き払って母と兄夫婦といっしょになります。
 岡田夫婦が宿に来て、一行の大阪見物の手助けをすると申し出ます。
 岡田への借金の返済のため、二郎は母から金をもらいます。
 二郎、母、兄夫婦が和歌の浦に行く車中で、二郎は、三沢から聞いた嫁いで精神病になった女の話を兄にします。兄もその話は同僚のHから聞いて知っていると言います。Hは三沢の保証人だった人です。
 和歌の浦で、母が兄夫婦の不仲を心配しています。
 和歌の浦に着いた翌朝の食事後に、兄が二郎を誘って二人だけで外出します。兄は二郎にとんでもない話をします。
 翌日、また兄が二郎を外へ連れ出します。
 兄は、二郎に妻の直の節操を試してほしいと話します。二人で和歌山見物に行って泊まってきてほしいというのです。
 二郎は泊まるのは何とか断ることができましたが、和歌山見物に行って直を観察することを承諾させられました。
 兄は、二郎のことを信用していると言いますが、本当にそうなのか疑わしい状況です。二郎は、兄の精神状態が心配でなりません。
 二郎と直は、悪天候になることを承知の上で和歌山見物を実行します。
 二郎は、思い切って兄に対する直の思いや、直自身のことについて話します。
 天候が悪化し、二人は宿に泊まることになってしまいました。二郎は直にいろいろと問い質しますが、本心がなかなか分かりません。
 翌朝、二郎と直は和歌の浦に帰りました。
 ひどい天候で皆嫌になり、早々と東京に帰ることにします。
 帰る前に兄は二郎を別室に呼び出し、直の気持ちや性質が理解できたか問い質します。

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センテンスのピックアップ

自分と兄とは常にこのくらい懸隔のある言葉で応対するのが例になっていた。これは年が少し違うのと、父が昔堅気で、長男に最上の権力を塗りつけるようにして育て上げた結果である。(青空文庫 Kindle版 p.81)

二郎と兄(一郎)との関係です。
『行人』が発表されたのは大正3年(1914年)です。この頃には長男重視の考えは薄れていたことが窺えます。東京のような大都市だけかもしれませんが。

彼は事件の断面を驚くばかり鮮かに覚えている代りに、場所の名や年月を全く忘れてしまう癖があった。それで彼は平気でいた。(青空文庫 Kindle版 p.83)

兄の特徴です。兄は平凡な人ではありません。同居する家族の者たちにとっては扱いにくい人物のようです。

岡田は兄の顔を見て、「久しぶりに会うと、すぐこれだから敵わない。全く東京ものは口が悪い」と云った。(青空文庫 Kindle版 p.85)

岡田は、二郎の家の書生だった人物です。すっかり大阪に慣れ親しんでいるようです。

三沢が別れる時、新しく自分の頭に残して行った美しい精神病の「娘さん」の不幸な結婚を聯想した。(青空文庫 Kindle版 p.86)

お貞の縁談は母が持ち出したことで、岡田に依頼したものです。二人がお貞の相手の佐野との会見の段取りなどを話しています。二郎は、こんな風に事が進んで結婚に至ってしまうことに不安を感じます。

嫂は無口な性質であった。お兼さんは愛嬌のある方であった。お兼さんが十口物をいう間に嫂は一口しかしゃべれなかった。(青空文庫 Kindle版 p.86)

兄と共に嫂の直もキーパーソンです。難しい夫婦のようです。 嫂(あによめ)

兄と同意見の自分は、家族中ぐるになって、佐野を瞞しているような気がしてならなかった。けれどもまた一方から云えば、佐野は瞞されてもしかるべきだという考えが始めから頭のどこかに引っかかっていた。(青空文庫 Kindle版 p.88-89)

この頃はまだこんな感じで縁談がまとまるのが一般的だったのでしょうか。

兄は学者であった。また見識家であった。その上詩人らしい純粋な気質を持って生れた好い男であった。けれども長男だけにどこかわがままなところを 具えていた。青空文庫 Kindle版 p.90)

母は長い間わが子の我を助けて育てるようにした結果として、今では何事によらずその我の前に跪く運命を甘んじなければならない位地にあった。(青空文庫 Kindle版 p.91)

兄は、朋友からは穏かな好い人物だと信じられています。しかし、家庭では全く扱いの難しい人物になってしまっています。

彼女は淋しい色沢の頰をもっていた。それからその真中に淋しい片靨をもっていた。(青空文庫 Kindle版 p.91)

嫂のことです。無口で淋しい顔の表情をもっている妻と気難しい夫。どうなってしまうのか。 片靨(かたえくぼ)

些細な事から兄はよく機嫌を悪くした。そうして明るい家の中に陰気な空気を漲ぎらした。(青空文庫 Kindle版 p.92)

本当に難しい人のようです。

兄の性質が気むずかしいばかりでなく、大小となく影でこそこそ何かやられるのを忌む正義の念から出るのだという事を後から知って以来、自分は彼に対してこんな軽薄な批評を加えるのを恥ずるようになった。(青空文庫 Kindle版 p.92)

二郎は、兄を否定的に捉えているだけではないようです。兄を理解しようとしています。この点は後のストーリーに影響を与えます。

「もっとも奥さんができてから、もうよっぽどになりますからね。しかし奥さんの方でもずいぶん気骨が折れるでしょう。あれじゃ」(青空文庫 Kindle版 p.98)

岡田が酔っぱらって二郎の兄のことを言っています。

「つまりその女がさ、三沢の想像する通り本当にあの男を思っていたか、または先の夫に対して云いたかった事を、我慢して云わずにいたので、精神病の結果ふらふらと口にし始めたのか、どっちだと思うと云うんだ」(青空文庫 Kindle版 p.104)

「おれはどうしてもその女が三沢に気があったのだとしか思われんがね」(青空文庫 Kindle版 p.105)

二郎は、汽車の中で精神病の女と三沢との関係の話を兄にしました。その話は兄も知っていて、車中ではおまえに言う必要もないので話していなかったと言ってそっけない態度でした。
しかし、宿に着くと今度は兄の方がその話をもち出しました。どうやらずっとそのことを考えていたようです。兄は考えられずにはいられない人です。

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「ところでさ、もしその女がはたしてそういう種類の精神病患者だとすると、すべて世間並の責任はその女の頭の中から消えて無くなってしまうに違なかろう。消えて無くなれば、胸に浮かんだ事なら何でも構わず露骨に云えるだろう。そうすると、その女の三沢に云った言葉は、普通我々が口にする好い加減な挨拶よりも遥に誠の籠った純粋のものじゃなかろうか」(青空文庫 Kindle版 p.105-106)

兄が考え抜いた末での話です。三沢は本当に純粋の愛を感じていたかもしれません。

「噫々女も気狂にして見なくっちゃ、本体はとうてい解らないのかな」(青空文庫 Kindle版 p.106)

ちょっと怖い言葉です。兄は女のことが分からずに苦しんでいるのでしょうか。 噫々(ああああ)

あれを御覧な、あれじゃまるであかの他人が同なじ方角へ歩いて行くのと違やしないやね。(青空文庫. Kindle 版 p.108)

母は無言のまま離れて歩いている夫婦のうちで、ただ嫂の方にばかり罪を着せたがった。(青空文庫 Kindle版 p.108)

母が夫婦の不仲を嘆いています。母はその原因は妻の直にあると思っています。

自分の見た彼女はけっして温かい女ではなかった。けれども相手から熱を与えると、温め得る女であった。持って生れた天然の愛嬌のない代りには、こっちの手加減でずいぶん愛嬌を搾り出す事のできる女であった。(青空文庫 Kindle版 p.109)

二郎は、兄一人に不仲の原因を求めるのは違うと思っているようです。

「だからさ妾には直が一郎に対してだけ、わざわざ、あんな風をつらあてがましくやっているように思われて仕方がないんだよ」(青空文庫 Kindle版 p.110)

母にはどうしても直の夫に対する態度が気に入らないようです。

「直お前どうするい」 母がこう聞いた時、嫂は例の通り淋しい靨を寄せて、「妾はどうでも構いません」と答えた。それがおとなしいとも取れるし、また聴きようでは、冷淡とも無愛想とも取れた。それを自分は兄に対して気の毒と思い嫂に対しては損だと考えた。(青空文庫 Kindle版 p.115)

二人だけで行くのは変だと言って母が直に聞いた場面です。直のこんなところが兄や母には気に入らないのです。

自分は兄から「おい二郎二人で行こう、二人ぎりで」と云われた時からすでに変な心持がした。(青空文庫 Kindle版 p.117)

兄が人のいない静かな所で話をしようと言います。二郎は体調が悪い上に何を話されるのか不安です。

「直は御前に惚れてるんじゃないか」兄の言葉は突然であった。かつ普通兄のもっている品格にあたいしなかった。(青空文庫 Kindle版 p.120)

二郎からすると兄らしからぬ言葉です。

自分は兄の気質が女に似て陰晴常なき天候のごとく変るのをよく承知していた。しかし一と見識ある彼の特長として、自分にはそれが天真爛漫の子供らしく見えたり、または玉のように玲瓏な詩人らしく見えたりした。自分は彼を尊敬しつつも、どこか馬鹿にしやすいところのある男のように考えない訳 に行かなかった。(青空文庫 Kindle版 p.122-123)

兄が直に対する不信を二郎にぶつけ、兄と二郎との問答で二郎が感じたことです。兄は涙を流して話していました。兄を理解するのは本当に難しいことです。 玲瓏(れいろう:美しく透き通っている様、また、玉などが澄んだ音で鳴る様)

「御前は幸福な男だ。おそらくそんな事をまだ研究する必要が出て来なかったんだろう」(青空文庫 Kindle版 p.124)

「書物の研究とか心理学の説明とか、そんな廻り遠い研究を指すのじゃない。現在自分の眼前にいて、最も親しかるべきはずの人、その人の心を研究し なければ、いても立ってもいられないというような必要に出逢った事があるかと聞いてるんだ」(青空文庫 Kindle版 p.124)

学問ばかりやっていて、本当にこのようになってしまう人もいるのかもしれません。兄が直のことを言っているのですが、「最も親しかるべきはずの人、その人の心を研究しなければ」ならないというのは、辛いというより淋しいことです。

「向うでわざと考えさせるように仕向けて来るんだ。おれの考え慣れた頭を逆に利用して。どうしても馬鹿にさせてくれないんだ」(青空文庫 Kindle版 p.124)

馬鹿になれば楽になる。しかし妻はそうさせないどころか、逆に自分に考えさせるように仕向けてくる。兄の辛い心境の吐露です。
馬鹿になりたいという心境になることは、多くの人に共通してあるのかもしれません。兄は本当に辛そうです。

「考えるだけで誰が宗教心に近づける。宗教は考えるものじゃない、信じるものだ」(青空文庫 Kindle版 p.127)

「ああおれはどうしても信じられない。どうしても信じられない。ただ考えて、考えて、考えるだけだ。二郎、どうかおれを信じられるようにしてくれ」と云った。(青空文庫 Kindle版 p.127)

その時の彼はほとんど砂の中で狂う泥鰌のようであった。青空文庫 Kindle版 p.127)

信じられない。考える。考えても信じることができない。兄の苦悩は極限に達しています。 泥鰌(どじょう)

今の自分は兄のいる前で嫂からこう気易く話しかけられるのが、兄に対して何とも申し訳がないようであった。のみならず、兄の眼から見れば、彼女が 故意に自分にだけにだけ親しみを表わしているとしか解釈ができまいと考えて誰にも打ち明けられない苦痛を感じた。(青空文庫 Kindle版 p.130)

二郎が兄から気の重くなる話を聞いて宿に帰ると、直は二郎には気軽に話をします。二郎は直と話をするのが苦痛になってしまいました。

「二郎おれは御前を信用している。御前の潔白な事はすでに御前の言語が証明している。それに間違はないだろう」
「ありません」
「それでは打ち明けるが、実は直の節操を御前に試して貰いたいのだ」 (青空文庫 Kindle版 p.133)

兄は、二郎のことは信用していると言います。しかし、直に対する疑いは強いものです。押し詰められた人間は、こんなとんでもないことを考えてしまうのでしょうか。二郎は大いに驚き、あっけにとられます。

「御前と直が二人で和歌山へ行って一晩泊ってくれれば好いんだ」(青空文庫 Kindle版 p.134)

当然、二郎は拒否します。

「じゃ頼むまい。その代りおれは生涯御前を疑ぐるよ」青空文庫 Kindle版 p.135)

二郎は、兄の癇癪玉が破裂して、その後に兄の気持ちが落ち着けばと期待しますが、そうはなりません。

「二郎おれはお前を信用している。けれども直を疑ぐっている。しかもその疑ぐられた当人の相手は不幸にしてお前だ。ただし不幸と云うのは、お前に 取って不幸というので、おれにはかえって幸になるかも知れない。と云うのは、おれは今明言した通り、お前の云う事なら何でも信じられるしまた何でも打明けられるから、それでおれには幸いなのだ。だから頼むのだ。おれの云う事に満更論理のない事もあるまい」青空文庫 Kindle版 p.135-136)

一郎の言っていることには矛盾があります。これはもう完全に二郎も疑っているということでしょう。兄は狂ってしまったのでしょうか。

「口で信じていて、腹では疑ぐっていらっしゃる」(青空文庫 Kindle版 p.137)

その激したある時に自分は兄を真正の精神病患者だと断定した瞬間さえあった。(青空文庫 Kindle版 p.137)

「・・・・・機会があったら姉さんにとくと腹の中を聞いて見る気でいたんですから、それだけなら受合いましょう。・・・・・」(青空文庫 Kindle版 p.137)

とうとう日帰りの和歌山見物だけは引き受ける事にした。(青空文庫 Kindle版 p.137)

二郎は嫌なことを引き受けざるを得ませんでした。

「なぜですって、御前と直と行くのはいけないよ」「兄さんに悪いと云うんですか」自分は露骨にこう聞いて見た。「兄さんに悪いばかりじゃないが……」「じゃ姉さんだの僕だのに悪いと云うんですか」(青空文庫 Kindle版 p.140)

母は、二郎と直が二人だけで和歌山見物に行くのを止めさせようとします。

自分は母の表情に珍らしく猜疑の影を見た。(青空文庫 Kindle版 p.140)

兄のとんでもない話が発端で、母まで二郎を疑うようになってしまったのでしょうか。二郎は大変な立場になってしまいました。

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「あなた今日は珍らしく黙っていらっしゃるのね」とついに嫂から注意された。(青空文庫 Kindle版 p.142)

和歌山見物に出かける前から、直は二郎の様子がいつもと違うことを感じ取っています。

彼女は蒼白い頰へ少し血を寄せた。その量が乏しいせいか、頰の奥の方に灯を点けたのが遠くから皮膚をほてらしているようであった。しかし自分はその意味を深くも考えなかった。(青空文庫 Kindle版 p.144)

電車の中で、二郎が兄に対する直の態度に注文を付けた後の直の表情です。

「何よ用談があるって。妾にそんなそんなむずかしい事が分りゃしないわ。それよりか向うの御座敷の三味線でも聞いてた方が増しよ」(青空文庫 Kindle版 p.149)

直の二郎に対する話し方はこんな感じです。こんなところも兄には気に入らないのでしょうか。

「妾そんな事みんな忘れちまったわ。だいち自分の年さえ忘れるくらいですもの」 嫂のこの恍け方はいかにも嫂らしく響いた。そうして自分にはかえって嬌態とも見えるこの不自然が、真面目な兄にはなはだしい不愉快を与えるのではなかろうかと考えた。(青空文庫 Kindle版 p.150)

兄夫婦によい接点を見出すのは無理なのでしょうか。 恍け(とぼけ) 嬌態(きょうたい:女のなまめかしい態度、媚びる態度)

自分はけっしてこんな役割を引き受けべき人格でなかった。自分は今更のように後悔した。青空文庫 Kindle版 p.151)

二郎は悪戦苦闘の状況です。

「だってそりゃ無理よ二郎さん。妾馬鹿で気がつかないから、みんなから冷淡と思われているかも知れないけれど、これで全くできるだけの事を兄さんに対してしている気なんですもの。―― 妾ゃ本当に腑抜なのよ。ことに近頃は魂の抜殻になっちまったんだから」青空文庫 Kindle 版 p.152)

「よござんす。もう伺わないでも」と云った嫂は、その言葉の終らないうちに涙をぽろぽろと落した。(青空文庫 Kindle版 p.152)

泣きながら云う嫂の言葉は途切れ途切れにしか聞こえなかった。しかしその途切れ途切れの言葉が鋭い力をもって自分の頭に応えた。(青空文庫 Kindle版 p.152)

直は直で苦しみを抱えています。誰もそれを分かってくれていないのは気の毒です。

若輩な自分は嫂の涙を眼の前に見て、何となく可憐に堪えないような気がした。ほかの場合なら彼女の手を取って共に泣いてやりたかった。(青空文庫 Kindle版 p.153)

直の苦しみの吐露は二郎の心に突き刺さったようです。

「妾の方があなたよりどのくらい落ちついているか知れやしない。たいていの男は意気地なしね、いざとなると」(青空文庫 Kindle版 p.167)

自分はこの時始めて女というものをまだ研究していない事に気がついた。(青空文庫 Kindle版 p.167)

自分は彼女と話している間始終彼女から翻弄されつつあるような心持がした。不思議な事に、その翻弄される心持が、自分に取って不愉快であるべきはずだのに、かえって愉快でならなかった。(青空文庫 Kindle版 p.168)

女というものを研究していない二郎です。直に惹かれる自分の気持ちを感じました。

自分は詩や小説にそれほど親しみのない嫂のくせに、何に昂奮して海嘯に攫われて死にたいなどと云うのか、そこをもっと突きとめて見たかった。(青空文庫 Kindle版 p.168)

死んでもかまわないと思うほどの直の苦しみとは何か。 海嘯(つなみ) 攫われて(されわれて)

「あなた昂奮昂奮って、よくおっしゃるけれども妾ゃあなたよりいくら落ちついてるか解りゃしないわ。いつでも覚悟ができてるんですもの」(青空文庫 Kindle版 p.169)

直は何かあれば本当に死ぬ覚悟でいるのでしょうか。口先だけとは思えません。

自分は平生こそ嫂の性質を幾分かしっかり手に握っているつもりであったが、いざ本式に彼女の口から本当のところを聞いて見ようとすると、まるで八幡の藪知らずへ這入ったように、すべてが解らなくなった。(青空文庫 Kindle版 p.171)

仮に二郎が女の研究を十分にしていたとしても、直という女はなかなか理解できそうもありません。

あるいは兄自身も自分と同じく、この正体を見届ようと煩悶し抜いた結果、こんな事になったのではなかろうか。自分は自分がもし兄と同じ運命に遭遇 したら、あるいは兄以上に神経を悩ましはしまいかと思って、始めて恐ろしい心持がした。(青空文庫 Kindle版 p.172)

二郎は、兄が神経を悩ましている原因を直に帰着させるつもりなのか。 煩悶(はんもん:悩み苦しむこと)

自分は親身の子として、時たま本当の父や母に向いながら噓と知りつつ真顔で何か云い聞かされる事を覚えて以来、世の中で本式の本当を云い続けに云うものは一人もないと諦めていた。青空文庫 Kindle版 p.175)

母は、二郎と直の仲を疑っているようですが、母はそんなことはないと言います。

「姉さんの人格について、御疑いになるところはまるでありません」
自分がこう云った時、兄は急に色を変えた。(青空文庫 Kindle版 p.181-182)

東京に帰る前に二郎が兄に言った言葉に兄は大きく反応します。

色を変えた彼を後に見捨てて、自分の席を立ったくらいだから、自分は普通よりよほど彼を見縊っていたに違なかった。その上自分はいざとなれば 腕力に訴えてでも嫂を弁護する気概を十分具えていた。これは嫂が潔白だからというよりも嫂に新たなる同情が加わったからと云う方が適切かも知れなかった。云い換えると、自分は兄をそれだけ軽蔑し始めたのである。席を立つ時などは多少彼に対する敵愾心さえ起った。(青空文庫 Kindle版 p.182)

二郎の心が分からなくなってきました。長男として権力を振るってきた兄への反駁なのか。直への愛か同情の裏返しとしての兄への軽蔑と敵愾心なのか。愛しているようにも思えません。 見縊って(みくびって) 敵愾心(てきがいしん)

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「帰ってから」編

あらすじ

 東京に帰ってから、予想に反して兄の精神状態は落ち着いています。
二郎にはまだ嫂の件の最終報告が残っているのですが、兄は何とも言わず、二郎はほっとしています。
 父がある不幸な女の話をしたことがきっかけとなって、二郎は兄からとうとう直のことについての報告を求められます。
 結局兄に報告をすることなく、兄は二郎に憤慨し、家庭の中は陰鬱な雰囲気になってしまいました。
 二郎は一人で引っ越すことを決意します。引っ越す前には兄から気の滅入るような話がありました。
 ある日二郎が三沢の家を訪ねると、三沢から兄の話がありました。二郎が引っ越す前後の頃の兄の講義の中で辻褄の合わない箇所がよくあったというのです。
 お貞さんと佐野の挙式が済み、お貞さんは直ぐに佐野と大阪へ行きました。
 二郎は実家に行っても兄とは何も話をしません。兄の精神状態が大変心配です。

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センテンスのピックアップ

自分は暗い中を走る汽車の響のうちに自分の下にいる嫂をどうしても忘れる事ができなかった。彼女の事を考えると愉快であった。同時に不愉快であっ た。何だか柔かい青大将に身体を絡まれるような心持もした。  
兄は谷一つ隔てて向うに寝ていた。これは身体が寝ているよりも本当に精神が寝ているように思われた。そうしてその寝ている精神を、ぐにゃぐにゃし た例の青大将が筋違に頭から足の先まで巻き詰めているごとく感じた。(青空文庫 Kindle版 p.186)

直から魔力とも妖気ともつかない何かが発せられているようです。二郎も兄も精神が変になっているようです。

自分の平生から不思議に思っていたのは、この外見上冷静な嫂に、頑是ない芳江がよくあれほどに馴つきえたものだという眼前の事実であった。(青空文庫 Kindle版 p.190)

芳江は兄夫婦の一人娘です。直の後をついて回る子です。 頑是ない(がんぜない:幼くてまだ物事の道理が分からない様)

兄は思索に遠ざかる事のできない読書家として、たいていは書斎裡の人であったので、いくら腹のうちでこの少女を鍾愛しても、鍾愛の報酬たる親しみの程度ははなはだ稀薄なものであった。(青空文庫 Kindle版 p.191)

兄の愛は芳江には届きません。一郎、二郎の妹のお重が父になつかせようと気づかいしますが、芳江は父に近づきません。 鍾愛(しょうあい)

嫂は平生の通り淋しい秋草のようにそこらを動いていた。そうして時々片靨を見せて笑った。(青空文庫 Kindle版 p.194)

直はあいかわらずという感じで、兄に対する態度も何も変わっていないようです。

兄の顔には孤独の淋しみが広い額を伝わって瘠けた頰に漲っていた。「二郎おれは昔から自然が好きだが、つまり人間と合わないので、やむをえず自然の方に心を移す訳になるんだろうかな」(青空文庫 Kindle版 p.197)

兄の精神状態がまた不安定になってきました。 瘠けた(こけた) 漲って(みなぎって)

兄の額には学者らしい皺がだんだん深く刻まれて来た。彼はますます書物と思索の中に沈んで行った。(青空文庫 Kindle版 p.201)

兄は、家庭の者が望む方向とは逆の方向にますます深く進んでいきます。

「・・・・・厭に嫂さんの肩ばかり持っ て……」「お前は嫂さんに抵抗し過ぎるよ」「当前ですわ。大兄さんの妹ですもの」(青空文庫 Kindle版 p.204)

お重と二郎との会話です。お重も直のことを悪く思っています。兄への同情心がそのことを後押ししています。

「何だって、そんなに人を馬鹿にするんです。これでも私はあなたの妹です。嫂さんはいくらあなたが贔屓にしたって、もともと他人じゃありませんか」(青空文庫 Kindle版 p.205)

お重は、どうしても嫂に対する二郎の態度が気に入りません。 贔屓(ひいき)

父は大きな声を出して笑った。御客もその反響のごとくに笑った。兄だけはおかしいのだか、苦々しいのだか変な顔をしていた。彼の心にはすべてこう云う物語が厳粛な人生問題として映るらしかった。彼の人生観から云ったら父の話しぶりさえあるいは軽薄に響いたかもしれない。(青空文庫 Kindle版 p.218)

父がある不幸な女の話をします。来客は他人事として笑ってますが兄はそうではありません。女の不幸を問題として捉えます。

「・・・・・おれはあの時、その女のために腹の中で泣いた。女は知らない女だからそれほど同情は起らなかったけれども、実をいうとお父さんの軽薄なのに泣いたのだ。本当に情ないと思った。……」
「そう女みたように解釈すれば、何だって軽薄に見えるでしょうけれども……」
「そんな事を云うところが、つまりお父さんの悪いところを受け継いでいる証拠になるだけさ。おれは直の事をお前に頼んで、その報告をいつまでも待っていた。ところがお前はいつまでも言葉を左右に託して、空恍けている……」(青空文庫 Kindle版 p.236)

父の不幸な女の話がきっかけとなり、内に燻っていた兄の気持ちが外に出てきました。父の話は二郎が予感したとおり嫌な結果をもたらしました。 空恍けて(そらとぼけて)

「この馬鹿野郎」と兄は突然大きな声を出した。(青空文庫 Kindle版 p.238)

「お前はお父さんの子だけあって、世渡りはおれより旨いかも知れないが、士人の交わりはできない男だ。なんで今になって直の事をお前の口などから聞こうとするものか。軽薄児め」(青空文庫 Kindle版 p.238)

「お父さんのような虚偽な自白を聞いた後、何で貴様の報告なんか宛にするものか」(青空文庫 Kindle版 p.238)

和歌山見物の時のことを話さなくて済んだのですが、二郎は兄の神経を逆立ててしまいました。

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彼は「君がお直さんなどの傍に長くくっついているから悪いんだ」と答えた。(青空文庫 Kindle版 p.240)

二郎は引っ越しを決意し、三沢に相談に行きました。二郎と直があまり気にしていない家庭での二人の会話なり態度は、他の者からみると不愉快な面があるようです。

「だって妾ばかり後へ残って……」(青空文庫 Kindle版 p.242)

二郎はお重に家を出ることを告げます。お重は涙を流します。

「しかしおれがお前を出したように皆なから思われては迷惑だよ」(青空文庫 Kindle版 p.248)

「一人出るのかい」と兄がまた聞いた。(青空文庫 Kindle版 p.249)

彼がわざとこう云う失礼な皮肉を云うのか、そうでなければ彼の頭に少し変調を来したのか、どっちだか解らないうちは、自分にもどの見当へ打って出て好いものか、料簡が定まらなかった。
彼の言葉は平生から皮肉たくさんに自分の耳を襲った。しかしそれは彼の智力が我々よりも鋭敏に働き過ぎる結果で、その他に悪気のない事は、自分によく呑み込めていた。ただこの一言だけは鼓膜に響いたなり、いつまでもそこでじんじん熱く鳴っていた。(青空文庫 Kindle版 p.249)

二郎は、最後に兄に家を出ることを告げました。その時の兄の言葉です。兄はやはり精神がおかしくなってしまったようです。

「新しい空気はおれも吸いたい。しかし新しい空気を吸わしてくれる所は、この広い東京に一カ所もない」
自分は半ばこの好んで孤立している兄を憐れんだ。そうして半ば彼の過敏な神経を悲しんだ。(青空文庫 Kindle版 p.250)

二郎が一人になって新しい空気を吸いたいと言った後の兄の言葉です。

「二郎、だから道徳に加勢するものは一時の勝利者には違ないが、永久の敗北者だ。自然に従うものは、一時の敗北者だけれども永久の勝利者だ……」(青空文庫 Kindle版 p.252)

「ところがおれは一時の勝利者にさえなれない。永久には無論敗北者だ」(青空文庫 Kindle版 p.252)

「二郎、お前は現在も未来も永久に、勝利者として存在しようとするつもりだろう」と彼は最後に云った。(青空文庫 Kindle版 p.252)

自分は癇癪持だけれども兄ほど露骨に突進はしない性質であった。ことさらこの時は、相手が全然正気なのか、または少し昂奮し過ぎた結果、精神に尋常でない一種の状態を引き起したのか、第一その方を懸念しなければならなかった。その上兄の精神状態をそこに導いた原因として、どうしても自分が 責任者と目指されているという事実を、なおさら苛く感じなければならなかった。(青空文庫 Kindle版 p.252-253)

フランチェスカとその夫の弟パオロとの不倫が夫に見つかり、パオロが殺されるという内容の物語を兄が話します。
なぜ夫の名は忘れられ、世間はパオロとフランチェスカだけ憶えている訳が分かるかと兄が二郎にききます。
その後に続く兄の話です。何のために二郎にこんな話をしたのか。やはり兄は正気ではありません。

そうして途々自分にも当然番の廻ってくるべき結婚問題を人生における不幸の謎のごとく考えた。(青空文庫 Kindle版 p.275)

お貞さんと佐野の挙式の後、一人で下宿に帰りながら、兄夫婦の関係をよく知っている二郎はこんなことを考えていました。

だんだん生物から孤立して、書物の中に引き摺り込まれて行くように見える彼を平生よりも一倍気の毒に思う事もあった。(青空文庫 Kindle版 p.277)

二郎は兄の精神状態がますます心配になってきました。

ところがこの注意深い母がその折卒然と自分に向って、「 二郎、ここだけの話だが、いったいお直の気立は好いのかね悪いのかね」と聞いた。(青空文庫 Kindle版 p.278)

兄と嫂の間に何か事件があったのかもしれません。

永いようで短い冬は、事の起りそうで事の起らない自分の前に、時雨、霜解、空っ風……と既定の日程を平凡に繰り返して、かように去ったのである。(青空文庫 Kindle版 p.279)

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「塵労」編

あらすじ

 突然、嫂が二郎の家にやって来ました。全く二郎の予想外のことです。嫂の話したことが二郎を苦しめます。
 兄夫婦の仲はますます良くない方向に向かっているようです。
 突然、二郎は父から電話をもらいます。これも予想外のことです。その日は一緒に外出し、最後に実家に行きました。
 兄の状態を母から聞かされます。ますます悪くなっていました。
 二郎は、兄と一番親密なHさんを頼ろうと提案します。二郎は、Hさんと関係が深い三沢からHさんに話してもらうことにします。
 三沢は結婚することが決まり、健康と幸福を手に入れた人の表情をしていました。
 Hさんの所には二郎と三沢の二人で行きました。Hさんは兄に旅行を勧めることを約束してくれました。
 Hさんは、春休み中はむりだが、夏休み中には是非とも兄を旅行に連れ出すと言ってくれました。
 五月の末になって三沢から二郎に招待状が届きました。雅楽の鑑賞です。Hさんが兄を説き伏せて夏休みに二人で旅行に行くことが書き添えられていました。
 雅楽所で三沢は、自分の奥さんになるべき人を二郎に教えてくれました。
 二郎がその気になれば、三沢はその人の連れの女を二郎に紹介しようと考えています。
 Hさんと兄が旅行に行く前に、二郎はHさんに会いに行きます。
 Hさんは、旅行中の兄を観察し、尋常でない感情や思想が認められた場合には、手紙で二郎に知らせることを約束しました。
 二人が旅立って十一日目にHさんから二郎に手紙が届きました。大変長い手紙です。
 兄は、どこへ行っても落ち着きません。Hさんには理解不能なことを言ったり、大雨の中を傘もささずに走って大声で叫んだり、Hさんを殴ったり。Hさんの苦労は絶えません。しかし、最後に行った紅が谷では兄は少し落ち着いていました。
 兄が寝ている間にHさんは長い二郎への手紙を書き終えました。

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センテンスのピックアップ

彼女の姿を上り口の土間に見出した時自分ははっと驚いた。そうしてその驚きは喜びの驚きよりもむしろ不安の驚きであった。(青空文庫 Kindle版 p.283)

二郎は、嫂が来るとは予期していませんでした。何のために来たのか。不安になります。

彼女から突如として彼女と兄の関係が、自分が宅を出た後もただ好くない一方に進んで行くだけであるという厭な事実を聞かされた。(青空文庫 Kindle版 p.287)

自分の最も心苦しく思っている問題の真相を、向うから積極的にこちらへ吐きかけたのだから、卑怯な自分は不意に硫酸を浴せられたようにひりひりと した。(青空文庫 Kindle版 p.287)

二郎は、嫂の方から積極的に兄との関係のことを話してくるとは予期していませんでした。いつもと違う感じです。

彼女は初めから運命なら畏れないという宗教心を、自分一人で持って生れた女らしかった。その代り他の運命も畏れないという性質にも見えた。
「男は厭になりさえすれば二郎さん見たいにどこへでも飛んで行けるけれども、女はそうは行きませんから。妾なんかちょうど親の手で植付けられた鉢植のようなもので一遍植えられたが最後、誰か来て動かしてくれない以上、とても動けやしません。じっとしているだけです。立枯になるまでじっとしているよりほかに仕方がないんですもの」
自分は気の毒そうに見えるこの訴えの裏面に、測るべからざる女性の強さを電気のように感じた。そうしてこの強さが兄に対してどう働くかに思い及んだ時、思わずひやりとした。(青空文庫 Kindle版 p.288-289)

二郎は、嫂の強さが夫婦関係の悪化の一因と気付きます。男は嫌になればどこかへ行ってしまう。でも私は立ち枯れになるまでずっとここにいるしかない。覚悟ができている女の強さです。

彼女の言葉はすべて影のように暗かった。それでいて、稲妻のように簡潔な閃を自分の胸に投げ込んだ。自分はこの影と稲妻と綴り合せて、もしや兄が この間中癇癖の嵩じたあげく、嫂に対して今までにない手荒な事でもしたのではなかろうかと考えた。打擲という字は折檻とか虐待とかいう字と並べて見ると、忌わしい残酷な響を持っている。嫂は今の女だから兄の行為を全くこの意味に解しているかも知れない。自分が彼女に兄の健康状態を聞いた時、彼女は人間だからいつどんな病気に罹るかも知れないと冷かに云って退けた。自分が兄の精神作用に掛念があってこの問を出したのは彼女にも通じ ているはずである。したがって平生よりもなお冷淡な彼女の答は、美しい己れの肉に加えられた鞭の音を、夫の未来に反響させる復讐の声とも取れた。――自分は怖かった。(青空文庫 Kindle版 p.290-291)

兄夫婦はどうなってしまうのか。二郎は恐ろしい未来が待ち受けているのではないかと恐れます。 閃(ひらめき) 癇癖(かんぺき:怒りっぽい性質) 打擲(ちょうちゃく:なぐること)

自分の想像と記憶は、ぽたりぽたりと垂れる雨滴の拍子のうちに、それからそれからととめどもなく深更まで廻転した。(青空文庫 Kindle版 p.292)

嫂が遺して言った言葉とそれから想像されることが、いつまでも二郎の頭の中を支配します。

自分はよほど前から事務所ではもう快活な男として通用しないようになっていた。ことに近来は口数さえ碌に利かなかった。それでこの三四日間に起った変化もまた他の注意に上らずに済んでいるのだろうと考えた。そうして自己と周囲と全く遮断された人の淋しさを独り感じた。(青空文庫 Kindle版 p.292)

二郎は仕事中も嫂の幽霊に追い回されている心持です。仕事が手につきません。周囲の人はそれさえ気が付かず、二郎は淋しさを感じます。

ある刹那には彼女は忍耐の権化のごとく、自分の前に立った。そうしてその忍耐には苦痛の痕迹さえ認められない気高さが潜んでいた。彼女は眉をひそめる代りに微笑した。泣き伏す代りに端然と坐った。あたかもその坐っている席の下からわが足の腐れるのを待つかのごとくに。要するに彼女の忍耐は、忍耐という意味を通り越して、ほとんど彼女の自然に近いある物であった。(青空文庫 Kindle版 p.293)

この嫂の忍耐が夫を苦しめるのでしょうか。そして二郎を悩ませるのでしょうか。

その様子といい言葉といい、いかにも兄の存在を苦にしているらしく見えて、はなはだ痛々しかった。彼ら(ことに母)は兄一人のために宅中の空気が 湿っぽくなるのを辛いと云った。尋常の父母以上にわが子を愛して来たという自信が、彼らの不平を一層濃く染めつけた。彼らはわが子からこれほど不愉快にされる因縁がないと暗に主張しているらしく思われた。(青空文庫 Kindle版 p.307)

「変人なんだから、今までもよくこんな事があったには有ったんだが、変人だけにすぐ癒ったもんだがね。不思議だよ今度は」(青空文庫 Kindle版 p.308)

「本当に困っちまうよ妾だって。腹も立つが気の毒でもあるしね」
母は訴えるように自分を見た。(青空文庫 Kindle版 p.308)

二郎が父の計らいで実家に行きました。母は兄のことで本当に困っています。兄の状態は今までとは違う段階まで悪くなっているようです。

自分は一人下宿へ帰る途々、やはり兄と嫂の事を考えない訳に行かなかった。しかしその日会った女の事もあるいは彼ら以上に考えたかも知れない。(青空文庫 Kindle版 p.328)

兄夫婦に対する心配。兄夫婦に良い影響を与えるかもしれない自分の結婚のこと。二郎もなかなか大変です。

その当日のぱっとした色彩が剝げて行くに連れて、番町の方が依然として重要な問題になって来た。(青空文庫 Kindle版 p.329)

三沢が自分に紹介しようとしている女のことよりも、二郎はやはり兄夫婦や実家のことが気になります。

真底を自白すると、自分の最も苦に病んでいるのは、兄の自分に対する思わくであった。彼は自分をどう見ているだろうか。どのくらいの程度に自分を 憎んでいるだろう、また疑っているだろう。そこが一番知りたかった。したがって自分の気になるのは未来の兄であると同時に現在の兄であった。 久しく彼と会見の路を絶たれた自分は、その現在の兄に関する直接の知識をほとんどもたなかった。(青空文庫 Kindle版 p.329)

二郎は、兄との関係を昔のように良くしたいと思っています。自分に対する兄の思いがどんなものか大変気にしています。

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これほど一方に無頓着な兄さんが、なぜ人事上のあらゆる方面に、同じ平然たる態度を見せる事ができないのかと思うと、私は実際不思議な感に打たれ ざるを得ません。(青空文庫 Kindle版 p.349)

兄さんは書物を読んでも、理窟を考えても、飯を食っても、散歩をしても、二六時中何をしても、そこに安住する事ができないのだそうです。何をしても、こんな事をしてはいられないという気分に追いかけられるのだそうです。「自分のしている事が、自分の目的になっていないほど苦しい事はない」と兄さんは云います。(青空文庫 Kindle版 p.352)

兄さんの苦しむのは、兄さんが何をどうしても、それが目的にならないばかりでなく、方便にもならないと思うからです。ただ不安なのです。したがってじっとしていられないのです。兄さんは落ちついて寝ていられないから起きると云います。起きると、ただ起きていられないから歩くと云います。歩くとただ歩いていられないから走けると云います。すでに走け出した以上、どこまで行っても止まれないと云います。止まれないばかりなら好いが刻一刻と速力を増して行かなければならないと云います。その極端を想像すると恐ろしいと云います。冷汗が出るように恐ろしいと云います。怖くて怖くて たまらないと云います。(青空文庫 Kindle版 p.352)

兄さんはこう云うのです。「人間の不安は科学の発展から来る。進んで止まる事を知らない科学は、かつて我々に止まる事を許してくれた事がない。徒歩から俥、俥から馬車、馬車から汽車、汽車から自動車、それから航空船、それから飛行機と、どこまで行っても休ませてくれない。どこまで伴れて行かれるか分らない。実に恐ろしい」(青空文庫 Kindle版 p.353)

「・・・・・要するに僕は人間全体の不安を、自分一人に集めて、そのまた不安を、一刻一 分の短時間に煮つめた恐ろしさを経験している」(青空文庫 Kindle版 p.354)

朝起き抜けに浜辺を歩いた時、兄さんは眠っているような深い海を眺めて、「海もこう静かだと好いね」と喜びました。近頃の兄さんは何でも動かないものが懐かしいのだそうです。その意味で水よりも山が気にるのでした。(青空文庫 Kindle版 p.355)

「・・・・・自然に対する僕の態度も全く同じ事だ。昔のようにただうつくしいから玩ぶという心持は、今の僕には起る余裕がない」(青空文庫 Kindle版 p.356)

「君でも一日のうちに、損も得も要らない、善も悪も考えない、ただ天然のままの心を天然のまま顔に出している事が、一度や二度はあるだろう。僕の 尊いというのは、その時の君の事を云うんだ。その時に限るのだ」(青空文庫 Kindle版 p.356)

私は兄さんと砂浜の上をのそりのそりと歩きました。歩きながら考えました。兄さんは早晩宗教の門を潜って始めて落ちつける人間ではなかろうか。もっと強い言葉で同じ意味を繰り返すと、兄さんは宗教家になるために、今は苦痛を受けつつあるのではなかろうか。(青空文庫 Kindle版 p.357)

Hさんから長い手紙が二郎に届きました。兄はHさんに苦悩を訴えます。実際、兄を救うことができるのは宗教だけなのかもしれません。Hさんの手紙はまだまだ続きます。

「僕は死んだ神より生きた人間の方が好きだ」(青空文庫 Kindle版 p.359)

「車夫でも、立ん坊でも、泥棒でも、僕がありがたいと思う刹那の顔、すなわち神じゃないか。山でも川でも海でも、僕が崇高だと感ずる瞬間の自然、取りも直さず神じゃないか。そのほかにどんな神がある」(青空文庫 Kindle版 p.359)

邪念のなさそうな人にたまたま出くわすと、兄はうれしくなり、その顔が気高く見えると言います。
兄は、美しい自然を感じることはできるようです。兄は、邪念のない、美しい心の人間を求めているようです。

「君は僕のお守になって、わざわざいっしょに旅行しているんじゃないか。僕は君の好意を感謝する。けれどもそういう動機から出る君の言動は、誠を 装う偽りに過ぎないと思う。朋友としての僕は君から離れるだけだ」
兄さんはこう断言しました。そうして私をそこへ取残したまま、一人でどんどん山道を馳け下りて行きました。その時私も兄さんの口を迸しるEinsamkeit, du meine Heimat Einsamkeit !(孤独なるものよ、汝はわが住居なり)という独逸語を聞きました。(青空文庫 Kindle版 p.364)

兄は誰も信じられなくなっています。孤独から抜け出す道はないのでしょうか。兄を救えるのは宗教だけしかないのでしょうか。 迸る(ほとばしる)

そうして実際孤独の感に堪えないのだと云い張りました。私はその時始めて兄さんの口から、彼がただに社会に立ってのみならず、家庭にあっても一様に孤独であるという痛ましい自白を聞かされました。兄さんは親しい私に対して疑念を持っている以上に、その家庭の誰彼を疑っているようでした。兄さんの眼には御父さんも御母さんも偽の器なのです。細君はことにそう見えるらしいのです。兄さんはその細君の頭にこの間手を加えたと云いました。(青空文庫 Kindle版 p.365)

兄さんはただ自分の周囲が偽で成立していると云います。(青空文庫 Kindle版 p.365-366)

社会においても家庭においても人が信じられないとは恐ろしいことです。どうしたら兄は孤独から少しでも解放されるのか。

兄さんは鋭敏な人です。美的にも倫理的にも、智的にも鋭敏過ぎて、つまり自分を苦しめに生れて来たような結果に陥っています。(青空文庫 Kindle版 p.367)

Hさんは、兄はあまりにも鋭敏で、今の世の中では苦しみを受けるだけだと言います。兄のわがままだと決めつけてはいけないと言います。

私はよく知っていました。考えて考えて考え抜いた兄さんの頭には、血と涙で書かれた宗教の二字が、最後の手段として、躍り叫んでいる事を知ってい ました。(青空文庫 Kindle版 p.368)

「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」(青空文庫 Kindle版 p.369)

「しかし宗教にはどうも這入れそうもない。 死ぬのも未練に食いとめられそうだ。なればまあ気違だな。しかし未来の僕はさておいて、現在の僕は君正気なんだろうかな。もうすでにどうかなっているんじゃないかしら。僕は怖くてたまらない」(青空文庫 Kindle版 p.369)

あまりにも悲痛な心の叫びです。

けれども是非、善悪、美醜の区別において、自分の今日までに養い上げた高い標準を、生活の中心としなければ生きていられない兄さんは、さらりとそれを擲って、幸福を求める気になれないのです。むしろそれにぶら下がりながら、幸福を得ようと焦燥るのです。そうしてその矛盾も兄さんにはよく呑み込めているのです。(青空文庫 Kindle版 p.372)

兄は苦しむために考え続ける人です。けれども、考えることを止めろと言っても止められる人ではありません。
どこかで兄は言っています。「宗教は考えるものじゃない。信じるものだ。」「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。」 擲って(なげうって)

しかし人間としての今の兄さんは、故に較べると、どこか乱れているようです。そうしてその乱れる原因を考えて見ると、判然と整った彼の頭の働きそのものから来ているのです。(青空文庫 Kindle版 p.376-377)

頭は確である、しかし気はことによると少し変かも知れない。信用はできる、しかし信用はできない。(青空文庫 Kindle版 p.377)

これ以外に言いようがないHさんは困っています。

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「神は自己だ」と兄さんが云います。(青空文庫 Kindle版 p.381)

「僕は絶対だ」と云います。(青空文庫 Kindle版 p.381)

兄さんの絶対というのは、哲学者の頭から割り出された空しい紙の上の数字ではなかったのです。自分でその境地に入って親しく経験する事のできる判 切した心理的のものだったのです。(青空文庫 Kindle版 p.381)

「根本義は死んでも生きても同じ事にならなければ、どうしても安心は得られない。すべからく現代を超越すべしといった才人はとにかく、僕は是非共生死を超越しなければ駄目だと思う」(青空文庫 Kindle版 p.382)

「君のような重厚な人間から見たら僕はいかにも軽薄なお喋舌に違ない。しかし僕はこれでも口で云う事を実行したがっているんだ。実行しなければならないと朝晩考え続けに考えているんだ。実行しなければ生きていられないとまで思いつめているんだ」(青空文庫 Kindle版 p.383)

「しかしどうしたらこの研究的な僕が、実行的な僕に変化できるだろう。どうぞ教えてくれ」と兄さんが頼むのです。(青空文庫 Kindle版 p.383)

「君の智慧は遥に僕に優っている。僕にはとても君を救う事はできない。僕の力は僕より鈍いものになら、あるいは及ぼし得るかも知れない。しかし僕 より聡明な君には全く無効である。(青空文庫 Kindle版 p.384)

「僕は明かに絶対の境地を認めている。しかし僕の世界観が明かになればなるほど、絶対は僕と離れてしまう。要するに僕は図を披いて地理を調査する人だったのだ。それでいて脚絆を着けて山河を跋渉する実地の人と、同じ経験をしようと焦慮り抜いているのだ。僕は迂濶なのだ。僕は矛盾なのだ。しかし迂濶と知り矛盾と知りながら、依然としてもがいている。僕は馬鹿だ。人間としての君は遥に僕よりも偉大だ」(青空文庫 Kindle版 p.384)

兄は宗教観をもっています。Hさんは兄の宗教観の全体を理解することはできません。兄が自分で言うとおり兄には矛盾があるのです。そして、矛盾から抜け出すことができないのです。「研究的な僕を実行的な僕に変える」という兄の願いにHさんは応えることができるのでしょうか。 跋渉(ばっしょう)

こういう批評的な談話を交換していると、せっかく実行的になりかけた兄さんを、またもとの研究的態度に戻してしまう恐れがあるのです。私は何より先にそれを気遣ました。私は天下にありとあらゆる芸術品、高山大河、もしくは美人、何でも構わないから、兄さんの心を悉皆奪い尽して、少しの研究的態度も萌し得ないほどなものを、兄さんに与えたいのです。そうして約一年ばかり、寸時の間断なく、その全勢力の支配を受けさせたいのです。兄さんのいわゆる物を所有するという言葉は、必竟物に所有されるという意味ではありませんか。だから絶対に物から所有される事、すなわち絶対に物を所有する事になるのだろうと思います。神を信じない兄さんは、そこに至って始めて世の中に落ちつけるのでしょう。(青空文庫 Kindle版 p.391)

旅の最後に訪れた紅が谷では兄はだいぶ落ち着きを取り戻しました。ここでは兄は蟹に見惚れているようなこともありました。今の兄にとって良い治療薬です。このような状態が長く続くことをHさんは切に願っています。 紅が谷(べにがやつ) 悉皆(しっかい) 萌し(きざし)

兄さんはお貞さんを宅中で一番慾の寡ない善良な人間だと云うのです。ああ云うのが幸福に生れて来た人間だと云って羨ましがるのです。自分もああなりたいと云うのです。(青空文庫 Kindle版 p.393)

兄は、信じられる人がいない中で、お貞さんのような善良な人に惹かれています。 寡ない(すくない)

いっさいの重荷を卸して楽になりたいのです。兄さんはその重荷を預かって貰う神をもっていないのです。(青空文庫 Kindle版 p.396)

「どうかして香厳になりたい」と兄さんが云います。(青空文庫 Kindle版 p.395)

お貞さんの話から香厳という昔の坊さんの話になりました。香厳は多知多解が煩いして悟れない人でした。香厳は閑寂な所に庵を建てるため、そこにある石を除けていると一つの石が竹にあたり、その朗らかな響きを聞いて、はっと悟ったというのです。兄には羨ましくてしょうがない話です。

「僕はお貞さんが幸福に生れた人だと云った。けれども僕がお貞さんのために幸福になれるとは云やしない」(青空文庫 Kindle版 p.397)

「君は結婚前の女と、結婚後の女と同じ女だと思っているのか」(青空文庫 Kindle版 p.398)

「どんな人のところへ行こうと、嫁に行けば、女は夫のために邪になるのだ。そういう僕がすでに僕の妻をどのくらい悪くしたか分らない。自分が悪くした妻から、幸福を求めるのは押が強過ぎるじゃないか。幸福は嫁に行って天真を損われた女からは要求できるものじゃないよ」(青空文庫 Kindle版 p.398-399)

次の日の朝食の時に兄がまたお貞さんのことを話し始めました。兄は、お貞さんでさえ嫁に行った以上、欲のない善良な人とはいえなくなってしまったと思っています。
兄は、お貞さんが嫁に行く直前に自分の部屋にお貞さんを一人呼んで話をしました。二階からお貞さんが下りて来た時、二郎はお貞さんの目に涙が宿った痕跡を認めました。その時に兄が何を話したのかは誰も知りません。

私の見た兄さんはおそらくあなた方の見た兄さんと違っているでしょう。私の理解する兄さんもまたあなた方の理解する兄さんではありますまい。もしこの手紙がこの努力に価するならば、その価は全くそこにあると考えて下さい。違った角度から、同じ人を見て別様の反射を受けたところにあると思って御参考になさい。あなた方は兄さんの将来について、とくに明瞭な知識を得たいと御望みになるかも知れませんが、予言者でない私は、未来に喙を挟さむ資格を持っておりません。雲が空に薄暗く被さった時、雨になる事もありますし、また雨にならずにすむ事もあります。ただ雲が空にある間、日の目の拝まれないのは事実です。あなた方は兄さんが傍のものを不愉快にすると云って、気の毒な兄さんに多少非難の意味を持たせているようですが、自分が幸福でないものに、他を幸福にする力があるはずがありません。雲で包まれている太陽に、なぜ暖かい光を与えないかと逼るのは、逼る方が無理でしょう。私はこうしていっしょにいる間、できるだけ兄さんのためにこの雲を払おうとしています。あなた方も兄さんから暖かな光を望む前に、まず兄さんの頭を取り巻いている雲を散らしてあげたらいいでしょう。もしそれが散らせないなら、家族のあなた方には悲しい事ができるかも知れません。兄さん自身にとっても悲しい結果になるでしょう。こういう私も悲しゅうございます。(青空文庫 Kindle版 p.400-401)

兄さんがこの眠から永久覚めなかったらさぞ幸福だろうという気がどこかでします。同時にもしこの眠から永久覚めなかったらさぞ悲しいだろうという気もどこかでします」(青空文庫 Kindle版 p.401)

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