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⑥『彼岸過迄』「須永の話」を読み解く

 『彼岸過迄』の中核となる短編小説です。
 須永市蔵が友人の田川敬太郎に自分に起こったことを話すという設定です。
 須永市蔵の複雑な心理の描写、須永と田口千代子との複雑な関係の描写があります。

  1. 一 千代子の結婚話
  2. 二 敬太郎の好奇心(須永と千代子のこと)
  3. 三 須永の長い話
  4. 四 父の記憶 母に対する思い
  5. 五 市蔵という人間と母
  6. 六 母の希望(市蔵と千代子の結婚)
  7. 七 市蔵の胸中(結婚のこと)
  8. 八 千代子の父母(田口)の動向
  9. 九 千代子の二人きりでの会話(千代子への思い)
  10. 十 千代子の言動に翻弄される市蔵
  11. 十一 二人の運命とは
  12. 十二 千代子との結婚を恐れる市蔵
  13. 十三 須永の大学3年から4年に移る夏休みの出来事
  14. 十四 鎌倉に向かう市蔵と母
  15. 十五 見知らぬ男 東京へ帰ろうとする市蔵
  16. 十六 高木という男
  17. 十七 市蔵の嫉妬心
  18. 十八 母の胸中を思う市蔵
  19. 十九 眠れない市蔵
  20. 二十 魚獲りでの出来事①
  21. 二十一 魚獲りでの出来事②
  22. 二十二 魚獲りでの出来事③
  23. 二十三 魚獲りでの出来事④
  24. 二十四 魚獲りでの出来事⑤
  25. 二十五 市蔵の帰宅
  26. 二十六 平静を取り戻した市蔵
  27. 二十七 書架から出てきた恐ろしい書物①
  28. 二十八 書架から出てきた恐ろしい書物②
  29. 二十九 小間使いの清 母の帰宅
  30. 三十 市蔵、母、須永の会話
  31. 三十一 寝付くことができない市蔵
  32. 三十二 疲れた表情の市蔵 髪結
  33. 三十三 市蔵と千代子の会話の始まり
  34. 三十四 千代子の市蔵への侮蔑の言葉
  35. 三十五 感情を爆発させた千代子

一 千代子の結婚話

一 千代子には結婚話があるようです。相手が誰であるかは敬太郎には分かりません。

須永がどこの何人と結婚しようと、千代子がどこの何人に片づこうと、それは敬太郎の関係するところではなかったが、この二人の運命が、それほど容易く右左へ未練なく離れ離れになり得るものか、または自分の想像した通り幻しに似た糸のようなものが、二人にも見えない縁となって、彼らを冥々のうちに繫ぎ合せているものか。それともこの夢で織った帯とも形容して然るべきちらちらするものが、ある時は二人の眼に明らかに見え、ある時は全たく切れて、彼らをばらばらに孤立させるものか、―― そこいらが敬太郎には知りたかったのである。

青空文庫 Kindle版 p.194

敬太郎には、須永と千代子を一対の男女として捉えようとする根強い意識があります。

二 敬太郎の好奇心(須永と千代子のこと)

二 敬太郎は、どうしても須永と千代子のことが気になります。次の日曜日にも須永の家に行きます。敬太郎は、須永を無理に外へ連れ出します。敬太郎は、千代子に対する須永の気持ちを確かめます。

ただ敬太郎は偶然にも自分の前に並んだ三人が、ありのままの今の姿で、現に似合わしい夫婦と姑になり終せているという事にふと思い及んだ時、彼らを世間並の形式で 纏めるのは、最も容易い仕事のように考えて帰った。

青空文庫 Kindle版. p.194

須永、千代子、須永の母が三人で一緒にいると、敬太郎にはどうしてもこの二人の結婚が自然のように思えます。

彼と矢来の松本といっしょに出ると、二人とも行先を考えずに歩くので、一致してとんでもない所へ到着する事がままあった。

青空文庫 Kindle版 (p.195

須永と松本には共通するところがあるようです。

敬太郎が須永から「君もこの頃はだいぶ落ちついて来たようだ」と評されても、彼は「少し真面目になったかね」とおとなしく受けるし、彼が須永に「君はますます 偏窟に傾くじゃないか」と調戯っても、須永は「どうも自分ながら厭になる事がある」と快よく己れの弱点を承認するだけであった。

青空文庫 Kindle版 p.196

敬太郎は田口のお陰である地位を得ることができ、これから社会に向き合うとことです。スタートラインに立ったばかりです。問題は須永です。自分でも嫌になる何かが自身にあると気に病んでいます。

三 須永の長い話

三 須永の長い話が始まります。

僕の父は早く死んだ。僕がまだ 親子の情愛をよく解しない子供の頃に突然死んでしまった。僕は子がないから、自分の血を分けた温たかい肉の塊りに対する情は、今でも比較的薄いかも知れないが、自分を生んでくれた親を懐かしいと思う心はその後だいぶ発達した。今の心をその時分持っていたならと考える事も稀ではない。一言でいうと、当時の僕は父にははなはだ冷淡だったのである。もっとも父もけっして甘い方ではなかった。今の僕の胸に映る彼の顔は、骨の高い血色の勝れない、親しみの薄い、厳格な表情に充ちた肖像に過ぎない。僕は自分の顔を鏡の裏に見るたんびに、それが胸の中に収めた父の容貌と大変似ているのを思い出しては不愉快になる。自分が父と同じ厭な印象を、傍の人に与えはしまいかと苦に病んで、そこで気が 引けるばかりではない。こんな陰欝な眉や額が代表するよりも、まだましな温たかい情愛を、血の中に流している今の自分から推して、あんなに冷酷に見えた父も、心の底にはには自分以上に熱い涙を貯えていたのではなかろうかと考えると、父の記念として、彼の悪い上皮だけを覚えているのが、子としていかにも情ない心持がするからである。父は死ぬ二三日前僕を枕元に呼んで、「 市蔵、おれが死ぬと御母さんの厄介にならなくっちゃならないぞ。知ってる か」と云った。

青空文庫 Kindle版 p.197-198

市蔵の長い話の始まりです。父の記憶、自分が父から受け継いだもの。生前の父に対する思い。今の父に対する思い。市蔵の父に対する思いはかなり複雑なようですが、生前の父のことはあまり良く思っていなかったようです。今は父の表面だけしか見ていなかったのではないかと、過去の自分の父に対する態度に疑問を持っているようです。

「今のように腕白じゃ、御母さんも構ってくれないぞ。もう少しおとなしくしないと」と云った。

青空文庫 Kindle版 p.197-198

市蔵の父が死ぬ前にこんなことを言いました。市蔵は、この時には何も感じませんでした。これを不要な言葉として捉えていました。

「御父さんが 御亡くなりになっても、御母さんが今まで通り可愛 がって上げるから安心なさいよ」と云った。

青空文庫 Kindle版 p.198

市蔵の父が死んだ後、母がこんなことを言いました。父が生前に言った言葉と同様に、市蔵はこの母の言葉にも特別な意味があるとは思っていませんでした。

両親に対する僕の記憶を、生長の後に至って、遠くの方で曇らすものは、二人のこの時の言葉であるという感じがその後しだいしだいに強く明らかになって来た。

青空文庫 Kindle版 p.199

聞いたときには何も感じなかった父と母の言葉が、市蔵の記憶の中で灰色の部分になっていきました。

この二三年はことに心配ばかりかけていた。が、いくら勝手を云い合っても、母子は生れて以来の母子で、この貴とい観念を傷つけられた覚は、重手にしろ浅手にしろ、まだ経験した試しがないという考えから、もしあの事を云い出して、二人共後悔の瘢痕を遺さなければすまない瘡を受けたなら、それこそ取返しのつかない不幸だと思っていた。

青空文庫 Kindle版 p.199

市蔵は、二人の言葉を母に確かめようと思ったことがあります。しかし、それをすることにより取返しのつかない事態になることを恐れ、母に聞くことをしませんでした。

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四 父の記憶 母に対する思い

四 父が生きていた時の市蔵の父と母の記憶です。特に母に対する思いが現れています。

人間が自分よりも余計に他を知りたがる癖のあるものだとすれば、僕の父は母よりもよほど他人らしく僕に見えていたのかも分らない。それを逆に云うと、母は観察に価しないほど僕に親しかったのである。

青空文庫 Kindle版 p.202

市蔵と母は、自他ともに認める仲の良い親子です。

五 市蔵という人間と母

五 市蔵は職に就くことを考えない人間です。父が遺してくれた財産がなければ許されることではありません。母は市蔵の就職のことを気にしています。犠牲になっている母を市蔵は気の毒に思っています。

僕は時めくために生れた男ではないと思う。法律などを修めないで、植物学か天文学でもやったらまだ 性に合った仕事が天から授かるかも知れないと思う。僕は世間に対してははなはだ気の弱い癖に、自分に対しては大変辛抱の好い男だからそう思うのである。

青空文庫 Kindle版 p.203

市蔵のことがよく分かる部分です。市蔵は、就職のことについて考えたことが一度もありません。朝から晩まで働いて、今の世の中で時めくような人間ではないと思っています。財産を遺してくれた父には感謝しています。

母は昔堅気の教育を受けた婦人の常として、家名を揚げるのが子たるものの第一の務だというような考えを、何より先に抱いている。しかし彼女の家名を揚げるというのは、名誉の意味か、財産の意味か、権力の意味か、または徳望の意味か、そこへ行くと全く何の分別もない。ただ漠然と、一つが頭の上に落ちて来れば、すべてその他が後を追って門前に輻湊するぐらいに思っている。しかし僕はそういう問題について、何事も母に説明してやる勇気がない。説明して聞かせるには、まず僕の見識でもっともと認めた家名の揚げ方をした上でないと、僕にその資格ができないからである。僕はいかなる意味においても家名を揚げ得る男ではない。ただ汚さないだけの見識を頭に入れておくばかりである。そうしてその見識は母に見せて喜こんで貰えるどころか、彼女とはまるでかけ離れた縁のないものなのだから、母も心細いだろう。 僕も淋しい。

青空文庫 Kindle版 p.204

母の家名に対する思いを市蔵は理解しています。しかし市蔵は、母の思うように家名を揚げるような人間ではないことを母に説明したとしても、理解してもらえるとは考えていません。市蔵は、自分のことを今の世の中に合う人間と思えず、過去の古い「家」というものを重んじる母の気持ちに応えることもできません。
市蔵は、このあたりを自分の欠点捉えているようです。

このわがままよりももっと鋭どい失望を母に与えそうなので、僕が 私かに胸を痛めているのは結婚問題である。結婚問題と云うより僕と千代子を取り巻く周囲の事情と云った方が適当かも知れない。

青空文庫 Kindle版 p.204

母は、市蔵と千代子の結婚を望んでいます。母の最も強い希望です。市蔵は、母の希望どおりになるには障害となることが多いと考えているようです。

六 母の希望(市蔵と千代子の結婚)

六 市蔵の母は、市蔵と千代子の結婚を強く望んでいます。しかし、市蔵と千代子は子供の頃からあまりにも近い存在で、市蔵は、異性として千代子を意識したことはほとんどなかったようです。

要するに母は未来に対する準備という考から、僕ら二人をなるべく仲善く育て上げよう育て上げようと力めた結果、男女としての二人をしだいに遠ざからした。 そうして自分では知らずにいた。それを知らなければならないようにした僕は全く残酷であった。
その日の事を語るのが僕には実際の苦痛である。

青空文庫 Kindle版 p.206-207

市蔵が大学二年の時、母は市蔵に千代子と結婚してくれるよう頼みます。市蔵は、母の強い希望にもかかわらず、結婚できないと言います。市蔵は、血族であることを理由としたのですが、本当の理由は市蔵の心の中にありました。簡単に母が引き下がるわけはなく、市蔵の大学卒業までにどうするか決めるという曖昧なものにしてしまいました。

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七 市蔵の胸中(結婚のこと)

七 市蔵の母は市蔵と千代子との結婚を強く望んでいますが、千代子の親は別の結婚相手を探しているようです。
このような状況で市蔵の心の中は複雑です。

僕は不安になった。母の顔を見るたびに、彼女を欺むいてその日その日を姑息に送っているような気がしてすまなかった。

青空文庫 Kindle版 p.208

千代子との結婚の話が市蔵の頭から離れません。母を騙しているという意識が市蔵を苦しめます。

ただ一言で云うと、彼らはその当時千代子を僕の嫁にしようと明言したのだろう。少なくともやってもいいぐらいには考えていたのだろう。が、その後彼らの社会に占め得た地位と、彼らとは背中合せに進んで行く僕の性格が、二重に実行の便宜を奪って、ただ惚けかかった空しい義理の抜殻を、彼らの頭のどこかに置き去りにして行ったと思えば差支ないのである。

青空文庫 Kindle版 p.209

千代子が生まれた時に、母が千代子を市蔵の嫁のくれと田口に言ったこと、それに田口夫婦が同意したことは確かなようです。しかし、田口の社会的地位の向上、市蔵の僻んだような性格が、この結婚話を進めることを阻んでいるようです。
惚け(ぼけ)

彼女はそう云う時に、平気で自分の利害や親の意思を犠牲に供し得る極めて純粋の女だと僕は常から信じていたからである。

青空文庫 Kindle版 p.210

千代子が母からしんみりと市蔵の嫁になってくれと頼まれたら、千代子が承知するのではないかと市蔵は不安になります。

八 千代子の父母(田口)の動向

八 市蔵は、母の喜ぶ顔を見るだけの目的で田口の家に行きます。ある晩、千代子が手料理をご馳走することになりました。その後、田口からの話を聞いた市蔵は、千代子を貰わないという最終決断をしたようです。

九 千代子の二人きりでの会話(千代子への思い)

九 市蔵は田口の家に二カ月ほど行きませんでした。その間に、母は結婚話が途絶えないよう千代子と多く接触するようになりました。ある日、市蔵が田口の家に行くと、千代子が風邪をひいて一人で留守番をしていました。そして、今までの千代子に対する自分の態度が悪かったことを悔やみます。

すると千代子は一種変な表情をして、「 あなた今日は大変優しいわね。奥さんを貰ったらそういう風に優しくしてあげなくっちゃいけないわね」と云った。遠慮がなくて親しみだけ持っていた僕は、今まで千代子に対していくら無愛嬌に振舞っても差支ないものと暗に自から許していたのだという事にこの時始めて気がつい た。そうして千代子の眼の中にどこか嬉しそうな色の微かながら漂ようのを認めて、自分が悪かったと後悔した。
二人はほとんどいっしょに生長したと同じ ような自分達の過去を振り返った。昔の記憶を語る言葉が互の唇から 当時を蘇生らせる便として洩れた。

青空文庫 Kindle版 p.214-215

二人の間のこのような会話は初めてのことだったようです。
二人の間には愛があるのでしょうか。市蔵の一言で千代子は嫁になると言うような気もします。市蔵には、それができない自分だけが納得できる何らかの理由があるようです。

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十 千代子の言動に翻弄される市蔵

十 二人の会話は続きます。市蔵は千代子の言動に翻弄されます。

「あたし御嫁に行く時も持ってくつもりよ」 僕はこの言葉を聞いて変に悲しくなった。そうしてその悲しい気分が、すぐ千代子の胸に応えそうなのがなお恐ろしかった。僕はその刹那すでに涙の溢れそうな黒い大きな眼を自分の前に想像したのである。

青空文庫 Kindle版 p.216-217

千代子が十二三の頃、市蔵が千代子に描いてやった絵のことです。市蔵には、そこまで千代子を嫁にするわけにはいかない理由があるのでしょうか。自分が千代子を愛していると捉えられることを恐れているのでしょうか。

今まで自分の安心を得る最後の手段として、一日も早く彼女の縁談が纏まれば好いがと念じていた僕の心臓は、この答と共にどきんと音のする浪を打った。そうして毛穴から這い出すような膏汗が、背中と腋の下を不意に襲った。

青空文庫 Kindle版 p.217

千代子が縁談がまとまったようなことを言います。市蔵は千代子を愛しているのです。

千代子の嫁に行く行かないが、僕にどう影響するかを、この時始めて実際に自覚する事のできた僕は、それを自覚させてくれた彼女の翻弄に対して感謝した。僕は今まで気がつかずに彼女を愛していたのかも知れなかった。あるいは彼女が気がつかないうちに僕を愛していたのかも知れなかった。

青空文庫 Kindle版 p.217

市蔵は、自分で自分の正体が分からなくなっています。しかし、千代子を愛しているのは間違いありません。

十一 二人の運命とは

十一 二人は、愛し合っていても結婚きない運命にあるのでしょうか。

田口夫婦の意向や僕の母の希望は、他人の入智慧同様に意味の少ないものとして、単に彼女と僕を裸にした生れつきだけを比較すると、僕らはとてもいっしょになる見込のないものと僕は平生から信じてい た。

青空文庫 Kindle版 p.219

市蔵は千代子を愛しています。千代子も市蔵を愛しているようです。しかし、市蔵は千代子といっしょになる見込みはないと信じています。何があるのでしょうか。

たといどれほど烈しく怒られても、僕は彼女から清いもので自分の腸を洗われたような気持のした場合が今までに何遍もあった。気高いものに出会ったという感じさえ稀には起したくらいである。僕は天下の前にただ 一人立って、彼女はあらゆる女のうちでもっとも女らしい女だと弁護したいくらいに思っている。

青空文庫 Kindle版 p.221

これだけ千代子のことを思っているのに、なぜ市蔵は母の希望どおり千代子といっしょにならないのか。何かが隠されているとしか思えません。

十二 千代子との結婚を恐れる市蔵

十二 市蔵は恐れおののく人間です。結婚すれば、千代子に残酷な失望を与えることのなると市蔵は確信しています。千代子と結婚したときの姿を想像すると市蔵は恐ろしくなります。

千代子が僕のところへ嫁に来れば必ず残酷な失望を経験しなければならない。彼女は美くしい天賦の感情を、あるに任せて惜気もなく夫の上に注ぎ込む代りに、それを受け入れる夫が、彼女から精神上の営養を得て、大いに世の中に活躍するのを唯一の報酬として夫から予期するに違いない。年のいかない、学問の乏しい、見識の狭い点から見ると気の毒と評して然るべき彼女は、頭と腕を挙げて実世間に打ち込んで、肉眼で指す事のできる権力か財力を攫まなくっては男子でないと考えている。単純な彼女は、たとい僕のところへ嫁に来ても、やはりそう云う働きぶりを僕から要求し、また要求さえすれば僕にできるものとのみ思いつめている。二人の間に横たわる根本的の不幸はここに存在すると云っても差支ないのである。

青空文庫 Kindle版 p.222-223

市蔵は、千代子といっしょになったとしても千代子に幸福をもたらすことはできない。根本的な問題として、千代子の希望する夫婦にはなれないと確信しています。市蔵はあまりにも深く考え、あまりにも恐れ、恐ろしいことを知った人間です。

要するに彼女から云えば、美くしいものを僕の上に永久浪費して、しだいしだいに結婚の不幸を嘆くに過ぎないのである。

青空文庫 Kindle版 p.223

千代子との結婚は、千代子に不幸をもたらすだけだとしか市蔵には思えません。

僕に云わせると、恐れないのが詩人の特色で、恐れるのが哲人の運命である。僕の思い切った事のできずにぐずぐずしているのは、何より先に結果を考えて取越苦労をするからである。千代子が風のごとく自由に振舞うのは、先の見えないほど強い感情が一度に胸に湧き出るからである。彼女は僕の知っている人間のうちで、最も恐れない一人である。だから恐れる僕を軽蔑するのである。僕はまた感情という自分の重みでけつまずきそうな彼女を、運命のアイロニーを解せざる詩人として深く憐れむのである。否時によると彼女のために戦慄するのである。

青空文庫 Kindle版 p.223-224

ある行動の結果を深く考えて立ち止まる市蔵、感情が原動力となって一気に行動する千代子。市蔵は、二人がいっしょになった姿を想像すると恐ろしくなります。

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十三 須永の大学3年から4年に移る夏休みの出来事

十三 須永の話の最後の方は敬太郎には理解できない部分がありました。敬太郎は理屈が大嫌いな人間です。詩や哲学への興味もありません。
須永は、大学3年から4年に移る夏休みの出来事の話をします。
田口一家が鎌倉に避暑に行っていて、須永と母も行くことになりました。

十四 鎌倉に向かう市蔵と母

十四 市蔵の父の生前も死後も母には好きな所に行く自由がありませんでした。市蔵と母は鎌倉に向かいます。
田口一家が滞在してる家に見知らぬ男がいました。市蔵は気にします。

僕は魚の事よりも先刻見た浴衣がけの男の居所が知りたかった。

青空文庫 Kindle版 p.229

市蔵は、明日の魚獲りに千代子から誘われます。
見知らぬ男のことを気にします。

十五 見知らぬ男 東京へ帰ろうとする市蔵

十五 見知らぬ男は、千代子の妹百代子の朋輩の兄高木でした。
田口とその子供の吾一も来るようです。市蔵は今夜東京へ帰らなければならないと言いますが、引き止められます。

その上僕は姉妹の知っている高木という男に会うのが厭だった。

青空文庫 Kindle版 p.231

市蔵は、高木という男に何かを感じています。

僕はそれほど知らない人を怖がる性分なのである。

青空文庫 Kindle版 p.231

僕は平生から彼女が僕に対して振舞うごとく大胆に率直に( ある時は善意ではあるが)威圧的に、他人に向って振舞う事ができたなら、僕のような他に欠点の多いものでも、さぞ愉快に世の中を渡って行かれるだろうと想像して、大いにこの小さな暴君を羨ましがっていた。

青空文庫 Kindle版 p.231

市蔵が東京に帰るというのを、千代子は強引に引き止めました。自分には不可能な振る舞いができる千代子を市蔵は羨みます。

要するに 僕は千代子の捕虜になったのである。

青空文庫 Kindle版 p.232

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十六 高木という男

十六 市蔵は高木に引き合わされました。高木は生気に満ち溢れた青年です。

それほど親しみの薄い、顔さえ見た事のない男の住居に何の興味があって、僕はわざわざ 砂の焼ける暑さを冒して外出したのだろう。僕は今日までその理由を誰にも話さずにいた。自分自身にもその時にはよく説明ができなかった。ただ遠くの方にある一種の不安が、僕の身体を動かしに来たという漠たる感じが胸に射したばかりであった。それが鎌倉で暮らした二日の間に、紛れもないある形を取って発展した結果を見て、僕を散歩に誘い出したのもやはり同じ力に違いないと今から思うのである。

青空文庫 Kindle版 p.233

市蔵が外出して家々の標札を読んでぶらぶら歩いたことの述懐です。

けれどもだんだん彼を観察しているうちに、彼は自分の得意な点を、劣者の僕に見せつけるような態度で、誇り顔に発揮するのではなかろうかという疑が起った。その時僕は急に彼を憎み出した。そうして僕の口を利くべき機会が廻って来てもわざと沈黙を守った。
落ちつい た今の気分でその時の事を回顧して見ると、こう解釈したのはあるいは僕の僻みだったかも分らない。僕はよく人を疑ぐる代りに、疑ぐる自分も同時に疑がわずにはいられない性質だから、結局他に話をする時にもどっちと判然したところが云い悪くなるが、もしそれが本当に僕の僻み根性だとすれば、その裏面にはまだ凝結した形にならない嫉妒が潜んで いたのである。

青空文庫 Kindle版 p.234-235

田口家の人々、市蔵、高木の会話の場面の市蔵の述懐です。
自然と市蔵と高木が比較されるような状況となっていました。市蔵は、他人を疑うと同時に自分を疑い、なかなか行動できない人間です。高木は生気に満ち溢れた青年です。これだけで市蔵は負けていると感じています。
もしも、この高木が千代子の結婚相手であったとしたら・・・・・

僕はこの男を始めて見た時、これは自然が反対を比較するために、わざと二人を同じ座敷に並べて見せるのではなかろうかと疑ぐった。

青空文庫 Kindle版 p.233

十七 市蔵の嫉妬心

十七 市蔵はなんとか嫉妬心を押さえようとします。
市蔵という人間の複雑な心が描かれています。

往来を歩いて綺麗な顔と綺麗な着物を見ると、雲間から明らかな日が射した時のように晴やかな心持になる。会にはその所有者になって見たいと云う考も起る。しかしその顔とその着物がどうはかなく変化し得るかをすぐ予想して、酔が去って急にぞっとする人のあさましさを覚える。

青空文庫 Kindle版 p.235-236

市蔵という人間は、今晴れやかな気持ちであったとしても、すぐに先のことを思い浮かべ、そのような気持ちは直ぐに消え去ってしまいます。  会には(たまには)

僕はその時高木から受けた名状しがたい不快を明らかに覚えている。そうして自分の所有でもない、また所有する気もない千代子が源因で、この嫉妒心が燃え出したのだと思った時、僕はどうしても僕の嫉妒心を抑えつけなければ自分の人格に対して申し訳がないような気がした。 僕は存在の権利を失った嫉妒心を抱いて、誰にも見えない腹の中で苦悶し始めた。

青空文庫 Kindle版 p.236

市蔵の複雑な嫉妬心です。千代子に対する愛も複雑です。

十八 母の胸中を思う市蔵

十八 高木が去った後、市蔵の母と叔母が高木の噂話をしています。
田口と吾一がやってきました。

ただ上部から見て平生の調子と何の変るところもない母が、この際高木と僕を比較して、腹の中でどう思っているだろうと考えると、僕は母に対して気の毒でもありまた恨めしくもあった。

青空文庫 Kindle版 p.238

市蔵は、母の気持ちまでも心配しなければならなくなりました。

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十九 眠れない市蔵

十九 田口と吾一が合流したので家の中は大混雑になりました。
田口と吾一が眠った後も、市蔵は夜が更けるまでいろいろな事を考えていました。

欠点でも母と共に具えているなら僕は大変嬉しかった。長所でも母になくって僕だけ有っているとはなはだ不愉快になった。そのうちで僕の最も気になるのは、僕の顔が父にだけ似て、母とはまるで縁のない眼鼻立にでき上っている事であった。

青空文庫 Kindle版 p.242

市蔵と母は仲睦まじい親子です。市蔵は、自分の顔が母と全く似ていないことを気にしています。

二十 魚獲りでの出来事①

二十 皆は魚獲りに向かいます。市蔵も連れていかれました。

二十一 魚獲りでの出来事②

二十一 高木も皆に合流し、全員がそろいました。

二十二 魚獲りでの出来事③

二十二 この魚獲りを企画したのは田口です。その田口でさえ、船を出して魚を獲りに行くことしか知りません。これからどうやって魚を獲るのか誰も知りません。

二十三 魚獲りでの出来事④

二十三 皆は船に乗りました。偶然ですが、市蔵は千代子と膝を突き合わせて座ることになりました。

しかし僕は断言する。もしその恋と同じ度合の劇烈な競争をあえてしなければ 思う人が手に入らないなら、僕はどんな苦痛と犠牲を忍んでも、超然と手を懐ろにして恋人を見棄ててしまうつもりでいる。男らしくないとも勇気に乏しいとも、意志が薄弱だとも、他から評したらどうにでも評されるだろう。けれどもそれほど切ない競争をしなければわがものにできにくいほど、どっちへ動いても好い女なら、それほど切ない競争に価しない女だとしか僕には認められないのである。僕には自分に靡かない女を無理に抱く喜こびよりは、相手の恋を自由の野に放ってやった時の男らしい気分で、わが失恋の瘡痕を淋しく見つめている方が、どのくらい良心に対して満足が多いか分らないのである。

青空文庫 Kindle版 p.252-253

このように思う人間はなかなかいないのではないでしょうか。これは確かに男らしかもしれません。

二十四 魚獲りでの出来事⑤

二十四 皆は面白がって魚獲りに挑みますが、市蔵は全く面白そうではありません。

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二十五 市蔵の帰宅

二十五 市蔵は、魚獲りの日の夜に一人で東京に帰ります。

高木にはそれから以後ついぞ顔を合せた事がなかった。千代子と僕に高木を加えて三つ巴を描いた一種の関係が、それぎり発展しないで、そのうちの劣敗者に当る僕が、あたかも運命の先途を予知したごとき態度で、中途から渦巻の外に逃れたのは、この話を聞くものにとって、定めし不本意であろう。

青空文庫 Kindle版 p.257-258

市蔵には高木と競う気はありません。もっとも千代子を娶る気がないのですが。

彼女は時によると、天下に只一人の僕を愛しているように見えた。僕はそれでも進む訳に行かないのである。しかし未来に眼を塞いで、思い切った態度に出ようかと思案しているうちに、彼女はたちまち僕の手から逃れて、全くの他人と違わない顔になってしまうのが常であった。

青空文庫 Kindle版 p.258

市蔵と千代子は行き違いが多いようです。

もし千代子と高木と僕と三人が巴になって恋か愛か人情かの旋風の中に狂うならば、その時僕を動かす力は高木に勝とうという競争心でない事を僕は断言する。それは高い塔の上から下を見た時、恐ろしくなると共に、飛び下りなければいられない神経作用と同じ物だと断言する。結果が高木に対して勝つか負けるかに帰着する上部から云えば、競争と見えるかも知れないが、動力は全く独立した一種の働きである。しかもその動力は高木がいさえしなければけっして僕を襲って来ないのである。僕はその二日間に、この怪しい力の閃を物凄く感じた。そうして強い決心と共にすぐ鎌倉を去った。

青空文庫 Kindle版 p.259

高木に対する嫉妬心があるのは間違いありませんが、それ以前に市蔵が持っている千代子に対する心の葛藤があります。

二十六 平静を取り戻した市蔵

二十六 市蔵は東京に帰り、平静を取り戻します。
書架の整理をしていると妙な書物が出てきました。

僕は僕の希望した通り、平生に近い落ちつきと冷静と無頓着とを、比較的容易に、淋しいわが二階の上に齎らし帰る事ができた。

青空文庫 Kindle版 p.260

市蔵は、東京に一人で帰ってむしろ苛つくのではないかと不安でしたが、普段の生活を取り戻したようです。

僕はただ彼女の身の周囲から出る落ちついた、気安い、おとなしやかな空気を愛したのである。

青空文庫 Kindle版 p.261

めずらしく市蔵が小間使の作に声をかけました。作の慎ましやかで控えめな女らしさを感じます。千代子とのあまりの違いの大きさを感じます。

二十七 書架から出てきた恐ろしい書物①

二十七 出てきた書物を貸してくれた友だちから聞いた市蔵にとって恐ろしい内容の小説です。
この小説の主人公は目覚ましい思慮と、恐ろしく 凄まじい思い切った行動を具えているというのです。
思慮深い人間は、思い切った行動ができないというのが市蔵の持論です。

二十八 書架から出てきた恐ろしい書物②

二十八 この小説には人殺しが出てきます。市蔵は、この人殺しの行動を自分に重ねて何気なく考えている自分にびっくりします。

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二十九 小間使いの清 母の帰宅

二十九 市蔵は、作に清らかさを感じます。そこへ母が鎌倉から帰ってきました。千代子が送ってきたのです。市蔵には予想外の千代子の行動です。

僕は僕の前に坐っている作の姿を見て、一筆がきの朝貌のような気がした。ただ貴とい名家の手にならないのが遺憾 であるが、心の中はそう云う種類の画と同じく簡略にでき上っているとしか僕には受取れなかった。

青空文庫 Kindle版 p.268

市蔵は、作の心の清らかさを感じます。

白状すると僕は高等教育を受けた証拠として、今日まで自分の頭が他より複雑に働らくのを自慢にしていた。ところがいつかその働らきに疲れていた。何の因果でこうまで事を細かに刻まなければ生きて行かれないのかと考えて情なかった。僕は茶碗を膳の上に置きながら、作の顔を見て尊とい感じを起した。

青空文庫 Kindle版 p.268

市蔵は、複雑に働く自分の頭が厄介者になっていることを感じ、作の清らかさを尊いと感じます。

自白すれば僕はそこへ坐って十分と経たないうちに、また眼の前にいる彼女の言語動作を一種の立場から観察したり、評価したり、解釈したりしなければならないようになったのである。僕はそこに気がついた時、非常な不愉快を感じた。またそういう努力には自分の神経が疲れ切っている事も感じた。僕は自分が自分に逆らって余儀なくこう心を働かすのか。あるいは千代子が厭がる僕を無理に強いて動くようにするのか。どっちにしても僕は腹立たしかっ た。

青空文庫 Kindle版 p.270-271

三十 市蔵、母、須永の会話

三十 その晩は三人で話をしますが、高木のことは誰も話しません。実は市蔵は、千代子から直に高木のことを聞きたかったのです。

相手が千代子だから、僕の弱点がこれほどに濃く胸を染めたのだと僕は明言して憚らない。では千代子のどの部分が僕の人格を堕落させるだろうか。それはとても分らない。あるいは彼女の親切じゃないかとも考えている。

青空文庫 Kindle版 p.273

市蔵の高木に対する嫉妬心は東京に帰ってからも収まりません。市蔵は、千代子のどこかに自分を堕落させる原因があると思っています。 憚らない(はばからない)

三十一 寝付くことができない市蔵

三十一 市蔵の母と千代子が一階に寝て、市蔵は二階の自分の部屋で寝ます。
市蔵は千代子のことを考えて寝付くことができません。

彼女は高木の事をとうとう一口も話頭に上せなかった。そこに僕ははなはだしい故意を認めた。白い紙の上に一点の暗い印気が落ちたような気がした。鎌倉へ行くまで千代子を天下の女性のうちで、最も純粋な一人と信じていた僕は、鎌倉で暮したわずか二日の間に、始めて彼女の技巧を疑い出したのである。

青空文庫 Kindle版 p.274-275

千代子は開けっ広げな人なのに、とうとう高木のことは一言も話しませんでした。市蔵は千代子を疑いだしました。

自分は人の気を悪くするために、人の中へ出る、不愉快な動物である。宅へ引込んで交際さえしなければそれで宜い。けれどももし親切を冠らない技巧が彼女の本義なら……。

青空文庫 Kindle版 p.275

僕は技巧の二字をどこまでも割って考えた。そうして技巧なら戦争だと考えた。戦争ならどうしても勝負に終るべきだと考えた。

青空文庫 Kindle版 p.276

市蔵は、鎌倉で高木という人物がいたために不愉快になっていたことを認めつつ、千代子に対して疑心暗鬼になっています。

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三十二 疲れた表情の市蔵 髪結

三十二 あくる日の朝、市蔵は当てもなく外へ出ます。散歩なのですが、出た時よりも疲れたような表情で家に帰ってきました。髪結が来ます。母の後に千代子も島田に結ってもらうことになりました。

三十三 市蔵と千代子の会話の始まり

三十三 千代子が髪を結っている間に市蔵は二階に上がってしまいます。
千代子が二階に上がってきます。

僕は中途で鏡台の傍を離れて、美くしい島田髷をいただく女が男から強奪する嘆賞の租税を免かれたつもりでいた。その時の僕はそれほどこの女の虚栄心に媚びる好意を有たなかったのである。

青空文庫 Kindle版 p.279

市蔵は、千代子が母と共に家に来てから、千代子と戦っているという意識があります。面と向かっての口論はありません。

僕は空威張を卑劣と同じく嫌う人間であるから、低くても小さくても、自分らしい自分を話すのを名誉と信じてなるべく 隠さない。けれども、世の中で認めている偉い人とか高い人とかいうもの は、ことごとく長火鉢や台所の卑しい人生の葛藤を超越しているのだろうか。僕はまだ学校を卒業したばかりの経験しか有たない青二才に過ぎないが、僕の知力と想像に訴えて考え たところでは、おそらくそんな偉い人高い人はいつの世にも存在していないのではなかろうか。

青空文庫 Kindle版 p.280

漱石はときどき下女であるとか小間使いを登場させます。
世の中が、偉い人、高い人と思う人たちが、本当にそう呼ばれるべき人たちなのか疑問に思っています。

僕は松本の叔父を尊敬している。けれども露骨なことを云えば、あの叔父のようなのは偉く見える人、高く見せる人と評すればそれで足りていると思う。僕は僕の敬愛する叔父に対しては偽物贋物の名を加える非礼と僻見とを憚かりたい。が、事実上彼は世俗に拘泥しない顔をして、腹の中で拘泥しているのである。小事に齷齪しない手を拱ぬいで、頭の奥で齷齪しているのである。外へ出さないだけが、普通より品が好いと云って僕は讃辞を呈したく思っている。そうしてその外へ出さないのは財産の御蔭、年齢の御蔭、学問と見識と修養の御蔭である。が、最後に彼と彼の家庭の調子が程好く取れているからでもあり、彼と社会の関係が逆なようで実は順に行くからでもある。

青空文庫 Kindle版 p.280-281

市蔵は松本の叔父を尊敬しています。しかし、松本が順調なのは、環境が整っているからであり、本当のところは、世俗に拘泥してしまっていて、頭の中は落ち着いていないと思っています。 齷齪(あくそく)

こんな事を聞いたり答えたり三四返しているうちに、僕はいつの間にか昔と同じように美くしい素直な邪気のない千代子を眼の前に見る気がし出した。

青空文庫 Kindle版 p.281-282

市蔵の千代子に対する疑念が消えたのでしょうか。ところが、市蔵はまずいことを喋ってしまいます。

三十四 千代子の市蔵への侮蔑の言葉

三十四 市蔵は、千代子「まだみんな鎌倉にいるのかい」「高木さんも」と聞いてしまいました。ここから千代子の市蔵への侮蔑の言葉が始まります。

ところが偶然高木の名前を口にした時、僕はたちまちこの尊敬を永久千代子に奪い返されたような心持がした。と云うのは、「高木さんも」という僕の問を聞いた千代子の表情が急に変化したのである。僕はそれを強ちに勝利の表情とは認めたくない。けれども彼女の眼のうちに、今まで 僕がいまだかつて彼女に見出した試しのない、一種の侮蔑が輝やいたのは疑いもない事実であった。

青空文庫 Kindle版 p.283

千代子は市蔵のことを、心の中を見透かすことができない無口な男と思っています。千代子にはそれが恐ろしいのですが、尊敬の元にもなっています。市蔵の一言がその尊敬を崩してしまいました。  強ち(あながち)

「あなたそれほど高木さんの事が気になるの」 彼女はこう云って、僕が両手で耳を抑えたいくらいな高笑いをした。僕はその時鋭どい侮辱を感じた。

青空文庫 Kindle版 p.284

「あなたは卑怯だ」と彼女が次に云った。

青空文庫 Kindle版 p.284

僕はようやくにして「なぜ」というわずか二字の問をかけた。

青空文庫 Kindle版 p.284

「それが解らなければあなた馬鹿よ」

青空文庫 Kindle版 p.284

三十五 感情を爆発させた千代子

三十五 千代子は僕は軽蔑している。あなたこそ私を軽蔑している。最後には千代子の思いが感情を伴って爆発します。

「・・・・・あなたはあたしを…… 愛していないんです。つまりあなたはあたしと結婚なさる気が……」

青空文庫 Kindle版 p.286

「・・・・・ただなぜ愛してもいず、細君にもしようと思っていないあたしに対して……」

青空文庫 Kindle版 p.286

「なぜ嫉妬なさるんです」

青空文庫 Kindle版 p.287

「あなたは卑怯です、徳義的に卑怯です。」

青空文庫 Kindle版 p.287

あたしはあなたを招待したために恥を搔いたも同じ事です。あなたはあたしの宅の客に侮辱を与えた結果、あたしにも侮辱を与えています」

青空文庫 Kindle版 p.287

「・・・・・言葉や仕打はどうでも構わないんです。あなたの態度が侮辱を与えているんです。態度が与えていないでも、あなたの心が与えているんです」

青空文庫 Kindle版 p.287

「男は卑怯だから、そう云う下らない挨拶ができるんです。 高木さんは紳士だからあなたを容れる雅量がいくらでもあるのに、あなたは高木さんを容れる事がけっしてできない。卑怯だからです」

青空文庫 Kindle版 p.287

一方的な市蔵に対する千代子の叱責の言葉で終わっています。
この後の市蔵がどうなったかは、次の『松本の話』に書かれています。

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