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『こころ』を読み解く

 『こころ』の主人公は「私」です。主な登場人物は、「先生」、書生時代の「先生」の友人「K」、「私」の父母、「私」の下宿先の「奥さん」とその「お嬢さん」、「私」の「叔父」です。姓名は一切出てきません。

 人の心の移り変わりが精緻に描かれています。

「私」
 鎌倉で出会ったある人物に興味をもち、「先生」と呼びます。
 「私」は常に父親と「先生」を対比し、「先生」を思う心の方が増大していきます。
 若かった「私」は、他の人とは違う「先生」から自分が求めている何かを得ることを期待します。

「先生」
 田舎から東京に出て、よく勉強し、よく遊ぶ元気な学生でした。
 高等学校在学中に叔父に相続財産を横取りされ、それから人間全体が信じられなくなります。
 下宿先の「お嬢さん」との結婚の前に、自分自身が信じられなくなる倫理的に暗い過去をもってしまいます。
 この小説の最終編「下 先生と遺書」は、全体の半分を占めています。

書生時代の「先生」の友人「K」
 寺の子供でした。精進という言葉をよく使い、勉強家で禁欲の人でした。
 自分の意思を貫き通したことにより親から勘当され、窮地に陥ります。
 「先生」が無理に説得して自分の下宿先に連れてきます。
 精進の人が、下宿先の「お嬢さん」に恋をして人が変わってしまいます。
「恋は罪悪ですよ」

「私」の父母
 住み慣れた郷里から外へ出ることを知りません。
 東京の大学を卒業した「私」に相当の地位と収入を期待します。
 父母と「私」との考え方の違いは歴然としています。

「先生」の叔父
 若かった「先生」にとって尊敬すべき叔父でした。
 しかし、「先生」の父母がほぼ同時に亡くなると、「先生」が相続すべき財産を見て悪人に変わってしまいます。
「金さ君。金を見ると、どんな君子でもすぐ悪人になるのさ」

上 先生と私

あらすじ

 主人公の「私」が、書生時代に「先生」と出会ったときの場面から始まります。
 鎌倉の海岸に来ていたある人に「私」は興味をもち、「私」は毎日海岸に行きます。
 「私」はその人に接近し、話をすることができるようになりました。「私」はその人を「先生」と呼びます。
 「私」は鎌倉から東京に帰り、「先生」の家をたびたび訪ねました。
 「先生」は、毎月の決まった日に必ず雑司ヶ谷の墓地に墓参りに行きます。友達の墓だと「先生」が教えてくれました。
 「先生」には奥さんも知らない何か暗い過去があるようです。
 「先生」が意味深げな話をしますが「私」には意味がよく分かりません。
 「私」は親に呼ばれて実家に帰ります。父親の病気が悪化しているようです。
 「私」は実家にいる間も「先生」のことを考え続けます。
 「先生」は、お父さんが存命のうちに財産のことをしっかりしておけと「私」に忠告します。
 実家から東京に帰った「私」は、「先生」に起こった過去の出来事をことごとく教えてもらうことになりました。ただし、その時期が来たらという条件です。
 「私」は無事に大学を卒業し、「先生」夫婦が祝ってくれました。その席でも「先生」は財産のことをしっかりしておけと言います。
 「私」は卒業証書を持って実家に帰ります。

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センテンスのピックアップ

私が先生と知り合いになったのは鎌倉である。その時私はまだ若々しい書生であった。青空文庫 Kindle版 p.8

私は自由と歓喜に充ちた筋肉を動かして海の中で躍り狂った。 青空文庫 Kindle版 p.13

「先生」の後を追って「私」は海に飛び込みます。二人で泳いでいる場面です。

もっと前へ進めば、私の予期するあるものが、いつか眼の前に満足に現われて来るだろうと思った。私は若かった。けれどもすべての人間に対して、若い血がこう素直に働こうとは思わなかった。私はなぜ先生に対してだけこんな心持が起るのか解らなかった。それが先生の亡くなった今日になって、始めて解って来た。 青空文庫 Kindle版 p.15

「私」は「先生」にもっと近付きたいのですが、「先生」の反応は「私」にはもの足りません。「先生」が亡くなってしまった今になって、「私」は当時の「先生」に対する心持を理解します。

傷ましい先生は、自分に近づこうとする人間に、近づくほどの価値のないものだから止せという警告を与えたのである。他の懐かしみに応じない先生は、他を軽蔑する前に、まず自分を軽蔑していたものとみえる。 青空文庫 Kindle版 p.15-16

「先生」には暗い過去があり、自分は軽蔑されるべき人間だと考えていたようです。

私はその人から鄭寧に先生の出先を教えられた。先生は例月その日になると雑司ヶ谷の墓地にある或る仏へ花を手向けに行く習慣なのだそうである。 青空文庫 Kindle版 p.17

「私」が「先生」の家を訪ねると「先生」は不在でした。美しい奥さんが行先を教えてくれました。

「あなたは死という事実をまだ真面目に考えた事がありませんね」といった。 青空文庫 Kindle版 p.18

「私」が墓石のことをあれこれ話していたときの「先生」の一言です。

私は最初から先生には近づきがたい不思議があるように思っていた。それでいて、どうしても近づかなければいられないという感じが、どこかに強く働いた。・・・・・人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事のできない人、―― これが先生であった。
今いった通り先生は始終静かであった。落ち付いていた。けれども時として変な曇りがその顔を横切る事があった。窓に黒い鳥影が射すように。射すかと思うと、すぐ消えるには消えたが。 青空文庫 Kindle版 p.20-21

「先生」の何かが「私」を引き付けました。「先生」の心の中には何か暗い部分があるようです。

もし私の好奇心が幾分でも先生の心に向かって、研究的に働き掛けたなら、二人の間を繫ぐ同情の糸は、何の容赦もなくその時ふつりと切れてしまったろう。 青空文庫 Kindle版 p.23

先生はそれでなくても、冷たい眼で研究されるのを絶えず恐れていたのである。 青空文庫 Kindle版 p.23

「私」の「先生」に対する態度は研究的なものではありませんでした。暖かい人間的な交際だったのです。

私は淋しい人間ですが、ことによるとあなたも淋しい人間じゃないですか。私は淋しくっても年を取っているから、動かずにいられるが、若いあなたはそうは行かないのでしょう。動けるだけ動きたいのでしょう。動いて何かに打つかりたいのでしょう……」
「私はちっとも淋しくはありません」 青空文庫 Kindle版 p.24

「あなたは私に会ってもおそらくまだ淋しい気がどこかでしているでしょう。私にはあなたのためにその淋しさを根元から引き抜いて上げるだけの力がないんだから。あなたは外の方を向いて今に手を広げなければならなくなります。今に私の宅の方へは足が向かなくなります」 青空文庫 Kindle版 p.24-25

「先生」が「私」に向かって話しかけます。「先生」は「私」のことを若くて淋しい人間だと言います。淋しいあなたは、淋しい私からいずれは離れて行くと「先生」は言います。しかし、「私」は「先生」の家に通い続けます。

「子供はいつまで経ったってできっこないよ」と先生がいった。
奥さんは黙っていた。「なぜです」と私が代りに聞いた時先生は「天罰だからさ」といって高く笑った。 青空文庫 Kindle 版 p.27

「先生」の奥さんは、子供がないことを淋しく思っています。「先生」の過去にはいったい何があったのか。

「妻が私を誤解するのです。それを誤解だといって聞かせても承知しないのです。つい腹を立てたのです」 青空文庫 Kindle版 p.29

「妻が考えているような人間なら、私だってこんなに苦しんでいやしない」 青空文庫 Kindle版 p.30

「先生」と奥さんは仲の良い夫婦です。珍しく喧嘩をした後に「先生」が「私」に話しました。「私」には「先生」の言っていることの意味が分かりません。

先生が最後に付け加えた「妻君のために」という言葉は妙にその時の私の心を暖かにした。私はその言葉のために、帰ってから安心して寝る事ができた。私はその後も長い間この「妻君のために」という言葉を忘れなかった。 青空文庫 Kindle版 p.31

喧嘩の話が終わって二人が別れる時に「先生」が話したことです。

「・・・・・そういう意味からいって、私たちは最も幸福に生れた人間の一対であるべきはずです」 青空文庫 Kindle版 p.31

その時ただ私の耳に異様に響いたのは、「最も幸福に生れた人間の一対であるべきはずです」という最後の一句であった。 青空文庫 Kindle版 p.31

仲の良い夫婦であっても、「先生」は幸福な夫婦とは思っていないようです。この言葉には深い意味がありそうです。

「・・・・・やっぱり何かやりたいのでしょう。それでいてできないんです。だから気の毒ですわ」 青空文庫 Kindle版 p.34

「それが解らないのよ、あなた。それが解るくらいなら私だって、こんなに心配しやしません。わからないから気の毒でたまらないんです」 青空文庫 Kindle版 p.34

「先生」の奥さんと「私」との会話です。「先生」は大学を出ています。世間に出ていくらでも活動できるはずです。しかし「先生」はそれをしません。奥さんにもその理由が分かりません。

「若い時はあんな人じゃなかったんですよ。若い時はまるで違っていました。それが全く変ってしまったんです」
「若い時っていつ頃ですか」と私が聞いた。
「書生時代よ」 青空文庫 Kindle版 p.34

先生は美しい恋愛の裏に、恐ろしい悲劇を持っていた。そうしてその悲劇のどんなに先生にとって見惨なものであるかは相手の奥さんにまるで知れていなかった。奥さんは今でもそれを知らずにいる。先生はそれを奥さんに隠して死んだ。先生は奥さんの幸福を破壊する前に、まず自分の生命を破壊してしまった。
私は今この悲劇について何事も語らない。その悲劇のためにむしろ生れ出たともいえる二人の恋愛については、先刻いった通りであった。二人とも私にはほとんど何も話してくれなかった。奥さんは慎みのために、先生はまたそれ以上の深い理由のために。 青空文庫 Kindle版 p.35-36

「先生」は自殺してしまいました。
「それ以上の深い理由」とは何か。

「・・・・・恋の満足を味わっている人はもっと暖かい声を出すものです。しかし……しかし君、恋は罪悪ですよ。解っていますか
私は急に驚かされた。何とも返事をしなかった。 青空文庫 Kindle版 p.37

「私」が仲良く歩く男女を見て冷やかした後の「先生」の言葉です。「恋は罪悪ですよ。」にも深い意味がありそうです。

「なぜですか」
「なぜだか今に解ります。今にじゃない、もう解っているはずです。あなたの心はとっくの昔からすでに恋で動いているじゃありませんか」 青空文庫 Kindle版 p.37

「私の胸の中にこれという目的物は一つもありません。私は先生 何も隠してはいないつもりです」
目的物がないから動くのです。あれば落ち付けるだろうと思って動きたくなるのです」 青空文庫 Kindle版 p.38

「・・・・・私は男としてどうしてもあなたに満足を与えられない人間なのです。それから、ある特別の事情があって、なおさらあなたに満足を与えられないでいるのです。私は実際お気の毒に思っています。あなたが私からよそへ動いて行くのは仕方がない。私はむしろそれを希望しているのです。しかし……」 青空文庫 Kindle版 p.38

「しかし気を付けないといけない。恋は罪悪なんだから。私の所では満足が得られない代りに危険もないが、――君、黒い長い髪で縛られた時の心持を知っていますか」 青空文庫 Kindle版 p.38

いずいずれにしても先生のいう罪悪という意味は朦朧としてよく解らなかった。 青空文庫 Kindle版 p.39

「先生」の意味深げな言葉が続きます。「恋は罪悪」

「・・・・・とにかく恋は罪悪ですよ、よござんすか。そうして神聖なものですよ
私には先生の話がますます解らなくなった。しかし先生はそれぎり恋を口にしなかった。 青空文庫 Kindle 版 p.39

「信用しないって、特にあなたを信用しないんじゃない。人間全体を信用しないんです」 青空文庫 Kindle版 p.41

「私はそれほど不信用なんですか。」と「私」が言ったときの「先生」の応えです。

「じゃ奥さんも信用なさらないんですか」と先生に聞いた。先生は少し不安な顔をした。そうして直接の答えを避けた。
「私は私自身さえ信用していないのです。つまり自分で自分が信用できないから、人も信用できないようになっているのです。自分を呪うより外に仕方がないのです」
「そうむずかしく考えれば、誰だって確かなものはないでしょう」
いや考えたんじゃない。やったんです。やった後で驚いたんです。そうして非常に怖くなったんです」 青空文庫 Kindle版 p.41

自分が先生と慕う人がやってしまったこととは何なのでしょうか。自分が信用できなくなったと言うのですから、重大なことには違いありません。

「とにかくあまり私を信用してはいけませんよ。今に後悔するから。そうして自分が欺かれた返報に、残酷な復讐をするようになるものだから」
「そりゃどういう意味ですか」
かつてはその人の膝の前に跪いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥けたいと思うのです。私は今より一層淋しい未来の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己れとに充ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わなくてはならないでしょう」 青空文庫 Kindle版 p.42

考えさせられる言葉のオンパレードです。
自分が信用されることは「先生」にとっては恐怖です。
「先生」には暗い過去があり、淋しい今があり、自分が信用されれば今よりも淋しい未来が待ち受けることになります。
人間は自由になればなるほど個を意識します。個を意識すればするほど他人とは切り離された孤独と淋しさ感じざるを得ません。

私の眼に映ずる先生はたしかに思想家であった。けれどもその思想家の纏め上げた主義の裏には、強い事実が織り込まれているらしかった。自分と切り離された他人の事実でなくって、自分自身が痛切に味わった事実、血が熱くなったり脈が止まったりするほどの事実が、畳み込まれているらしかった。 青空文庫 Kindle版 p.43

「私」は、「先生」の話は単なる思想ではなく、「先生」自身の過去の事実が大きく影響していると考えます。過去の事実が何であるかは「先生」は話しません。

けれども私に取ってその墓は全く死んだものであった。二人の間にある生命の扉を開ける鍵にはならなかった。むしろ二人の間に立って、自由の往来を 妨げる魔物のようであった。 青空文庫 Kindle版 p.44

雑司ヶ谷の墓のことです。この墓は「先生の頭の中にある命の断片」です。

「議論はいやよ。よく男の方は議論だけなさるのね、面白そうに。空の盃でよくああ飽きずに献酬ができると思いますわ」
奥さんの言葉は少し手痛かった。しかしその言葉の耳障からいうと、決して猛烈なものではなかった。自分に頭脳のある事を相手に認めさせて、そこに 一種の誇りを見出すほどに奥さんは現代的でなかった。奥さんはそれよりもっと底の方に沈んだ心を大事にしているらしく見えた。 青空文庫 Kindle版 p.47

「先生」の人間嫌いについての「私」との議論を奥さんが打ち切ろうとします。奥さんの大事にしている「先生」の心とは?

「私は嫌われてるとは思いません。嫌われる訳がないんですもの。しかし先生は世間が嫌いなんでしょう。世間というより近頃では人間が嫌いになっているんでしょう。だからその人間の一人として、私も好かれるはずがないじゃありませんか」 青空文庫 Kindle版 p.49

「私」は「先生」についての「奥さん」との話を止めることができません。

自分と夫の間には何の蟠まりもない、またないはずであるのに、やはり何かある。それだのに眼を開けて見極めようとすると、やはり何にもない。奥さんの苦にする要点はここにあった。 青空文庫 Kindle版 p.52

奥さんは「先生」の心の奥にありそうな何かを感じています。 蟠まり(わだかまり)

「実は私すこし思いあたる事があるんですけれども……」 青空文庫 Kindle版 p.53

「先生がまだ大学にいる時分、大変仲の好いお友達が一人あったのよ。その方がちょうど卒業する少し前に死んだんです。急に死んだんです」 青空文庫 Kindle版 p.54

「実は変死したんです」 青空文庫 Kindle版 p.54

「・・・・・けれどもその事があってから後なんです。先生の性質が段々変って来たのは。・・・・・」 青空文庫 Kindle版 p.54

奥さんが「先生」のことで思い当たることを話し始めます。

けれども私はもともと事の大根を攫んでいなかった。奥さんの不安も実はそこに漂う薄い雲に似た疑惑から出て来ていた。 青空文庫 Kindle版 p.55

「先生」の大学時代の親友の変死の裏に何があったのか、奥さんにも分かりません。

冬が来た時、私は偶然国へ帰らなければならない事になった。 青空文庫 Kindle版 p.57

私は心のうちで、父と先生とを比較して見た。両方とも世間から見れば、生きているか死んでいるか分らないほど大人しい男であった。他に認められるという点からいえばどっちも零であった。それでいて、この将碁を差したがる父は、単なる娯楽の相手としても私には物足りなかった。かつて遊興のために往来をした覚えのない先生は、歓楽の交際から出る親しみ以上に、いつか私の頭に影響を与えていた。ただ頭というのはあまりに冷やか過ぎるから、私は胸といい直したい。肉のなかに先生の力が喰い込んでいるといっても、血のなかに先生の命が流れているといっても、その時の私には少しも誇張でないように思われた。私は父が私の本当の父であり、先生はまたいうまでもなく、あかの他人であるという明白な事実を、ことさらに眼の前に並べてみて、始めて大きな真理でも発見したかのごとくに驚いた。 青空文庫 Kindle版 p.63

「私」は実家に帰っても「先生」のことを考えています。「私」は父親と「先生」を比べ、「先生」の存在の大きさに驚きます。

「よくころりと死ぬ人があるじゃありませんか。自然に。それからあっと思う間に死ぬ人もあるでしょう。不自然な暴力で」
「不自然な暴力って何ですか」
「何だかそれは私にも解らないが、自殺する人はみんな不自然な暴力を使うんでしょう」 青空文庫 Kindle版 p.66

「私」が東京に帰り、父親の病気の話をしていると、「先生」がこんなことを言います。

私は先生が私のうちの財産を聞いたり、私の父の病気を尋ねたりするのを、普通の談話――胸に浮かんだままをその通り口にする、普通の談話と思って聞いていた。ところが先生の言葉の底には両方を結び付ける大きな意味があった。先生自身の経験を持たない私は無論そこに気が付くはずがなかった。 青空文庫 Kindle版 p.74

君のお父さんが達者なうちに、貰うものはちゃんと貰っておくようにしたらどうですか。万一の事があったあとで、一番面倒の起るのは財産の問題だから」 青空文庫 Kindle版 p.75

君は今、君の親戚なぞの中に、これといって、悪い人間はいないようだといいましたね。しかし悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです」 青空文庫 Kindle版 p.76

「先生」は財産の話ををした後、普通の人間が急に悪人に変わるから油断できないと言います。「私」には急に悪人に変わるという意味が分かりません。

金さ君。金を見ると、どんな君子でもすぐ悪人になるのさ」 青空文庫 Kindle版 p.79

「先生」の答が平凡だったので「私」は拍子抜けです。しかし、この話には続きがあります。

「いや見えても構わない。実際昂奮するんだから。私は財産の事をいうときっと昂奮するんです。君にはどう見えるか知らないが、私はこれで大変執念深い男なんだから。人から受けた屈辱や損害は、十年たっても二十年たっても忘れやしないんだから」 青空文庫 Kindle版 p.81

私は先生の性質の特色として、こんな執着力をいまだかつて想像した事さえなかった。私は先生をもっと弱い人と信じ ていた。そうしてその弱くて高い処に、私の懐かしみの根を置いていた。 青空文庫 Kindle版 p.81

「私」は「先生」の意外な面を知ることになります。過去のいくつかの重大な事件によって今の「先生」があるようです。

「私は他に欺かれたのです。しかも血のつづいた親戚のものから欺かれたのです。私は決してそれを忘れないのです。私の父の前には善人であったらしい彼らは、父の死ぬや否や許しがたい不徳義漢に変ったのです。私は彼らから受けた屈辱と損害を小供の時から今日まで背負わされている。恐らく死ぬまで背負わされ通しでしょう。私は死ぬまでそれを忘れる事ができないんだから。しかし私はまだ復讐をしずにいる。考えると私は個人に対する復讐以上の事を現にやっているんだ。私は彼らを憎むばかりじゃない、彼らが代表している人間というものを、一般に憎む事を覚えたのだ。私はそれで沢山だと思う」 青空文庫 Kindle版 p.82

「先生」の人間嫌いの根の一部分はここにあったのです。

「あなたは大胆だ」
「ただ真面目なんです。真面目に人生から教訓を受けたいのです」
「私の過去を訐いてもですか」
訐くという言葉が、突然恐ろしい響きをもって、私の耳を打った。私は今私の前に坐っているのが、一人の罪人であって、不断から尊敬している先生でないような気がした。先生の顔は蒼かった。
「あなたは本当に真面目なんですか」と先生が念を押した。「 私は過去の因果で、人を疑りつけている。だから実はあなたも疑っている。しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るにはあまりに単純すぎるようだ。私は死ぬ前にたった一人で好いから、他を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたははらの底から真面目ですか」 青空文庫 Kindle版 p.84

「もし私の命が真面目なものなら、私の今いった事も真面目です」
私の声は顫えた。 青空文庫 Kindle版 p.84

「よろしい」と先生がいった。「 話しましょう。私の過去を残らず、あなたに話して上げましょう。その代り……。いやそれは構わない。しかし私の過去はあなたに取ってそれほど有益でないかも知れませんよ。聞かない方が増かも知れませんよ。それから、――今は話せないんだから、そのつもりで いて下さい。適当の時機が来なくっちゃ話さないんだから」 青空文庫 Kindle版 p.84-85

「私」は「先生」の過去をことごとく聞き出そうとします。「先生」がそれに応えます。「先生」の過去の出来事から教訓を得たいという「私」の純粋な気持ちが伝わったようです。 訐 く(あばく)

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中 両親と私

あらすじ

 「私」は実家に帰りました。父親は死を覚悟しているようで、自分が生きている間に「私」が卒業したことを喜びます。
 「私」は実家にいても「先生」のことを忘れていません。「先生」に手紙を書きますが返事がありあません。
 父母は、大学を卒業した「私」に相当の地位と収入を期待します。
 父母の勧めに従って「私」は「先生」に地位の周旋を依頼する手紙を出しますが、「先生」からの返事はありません。
 9月になり、「私」は地位を得るために一時的に東京に帰ることにしましたが、帰る間際に父が卒倒したため、帰るのを延期しました。
 父はもうだめだと判断した「私」は、兄と妹に電報を打って実家に呼び寄せます。
 突然「先生」から「私」に電報が届きます。ちょっとこちらに来られるかという内容でした。父が危篤に陥りつつあります。行けない旨の連絡をします。
 父が昏睡状態になった後、「私」は「先生」から長い手紙を受け取ります。
「私」は、汽車に飛び乗って「先生」のもとに向かいます。汽車の中で「先生」から受け取った手紙を読みます。

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センテンスのピックアップ

私には口で祝ってくれながら、腹の底でけなしている先生の方が、それほどにもないものを珍しそうに嬉しがる父よりも、かえって高尚に見えた。私はしまいに父の無知から出る田舎臭いところに不快を感じ出した。 青空文庫 Kindle版 p.99-100

「・・・・・大きな考えをもっているお前から見たら、高が大学を卒業したぐらいで、結構だ結構だといわれるのは余り面白くもないだろう。しかしおれの方から見てご覧、立場が少し違っているよ。つまり卒業はお前に取ってより、このおれに取って結構なんだ。解ったかい」 青空文庫 Kindle 版 p.100

私は一言もなかった。詫まる以上に恐縮して俯向いていた。父は平気なうちに自分の死を覚悟していたものとみえる。しかも私の卒業する前に死ぬだろうと思い定めていたとみえる。その卒業が父の心にどのくらい響くかも考えずにいた私は全く愚かものであった。 青空文庫 Kindle版 p.100-101

「私」はどうしても父親と「先生」を比較してしまいます。若かった「私」には父親の心が全く分かっていなかったようです。

「学問をさせると人間がとかく理屈っぽくなっていけない」
父はただこれだけしかいわなかった。しかし私はこの簡単な一句のうちに、父が平生から私に対してもっている不平の全体を見た。 青空文庫 Kindle版 p.106

父親が、客を呼んで「私」の大学卒業祝いをやると言います。「私」はそれを直ぐに断ります。
一旦は祝いをやることになったのですが、明治天皇のご病気の報知があり、取り止めとなりました。

その手紙のうちにはこれというほどの必要の事も書いてないのを、私は能く承知していた。ただ 私は淋しかった。そうして先生から返事の来るのを予期してかかった。しかしその返事はついに来なかった。 青空文庫 Kindle版 p.108

「私」は「先生」と離れて暮らすことに淋しさを感じているようです。「私」にはどうしても「先生」が必要な存在です。

父の考えは、古く住み慣れた郷里から外へ出る事を知らなかった。 青空文庫 Kindle版 p.113

私はあからさまに自分の考えを打ち明けるには、あまりに距離の懸隔の甚しい父と母の前に黙然としていた。 青空文庫 Kindle版 p.113

父の考えでは、役に立つものは世の中へ出てみんな相当の地位を得て働いている。必竟やくざだから遊んでいるのだと結論しているらしかった。 青空文庫 Kindle版 p.114

卒業したての「私」に父母は地位と収入を期待します。また、周りの人たちからの視線も気になります。「私」は広い都を根拠地と考えている人間です。郷里以外を知らない父母の考えとは大きな隔たりがあるのです。父母は「先生」に地位の周旋を頼んだらいいと言います。「先生」はそのような人ではありません。「先生」自体何もしていない人です。

私は淋しそうな父の態度と言葉を繰り返しながら、手紙を出しても返事を寄こさない先生の事をまた憶い浮べ た。先生と父とは、まるで反対の印象を私に与える点において、比較の上にも、連想の上にも、いっしょに私の頭に上りやすかった。
私はほとんど父のすべても知り尽していた。もし父を離れるとすれば、情合の上に親子の心残りがあるだけであった。先生の多くはまだ私に解っていなかった。話すと約束されたその人の過去もまだ聞く機会を得ずにいた。要するに先生は私にとって薄暗かった。私はぜひともそこを通り越して、明るい所まで行かなければ気が済まなかった。先生と関係の絶えるのは私にとって大いな苦痛であった。私は母に日を見てもらって、東京へ立つ日取りを極めた。 青空文庫 Kindle版 p.119

父に同情しながらも「私」は「先生」のことを常に考えています。もしも父と離れるのであれば、「情合の上に親子の心残りがあるだけ」で、「「先生」との関係の絶えるのは私にとって多いな苦痛であった。」

「おれが死んだら、どうかお母さんを大事にしてやってくれ」
私はこの「おれが死んだら」という言葉に一種の記憶をもっていた。東京を立つ時、先生が奥さんに向かって何遍もそれを繰り返したのは、私が卒業した日の晩の事であった。私は笑いを帯びた先生の顔と、縁喜でもないと耳を塞いだ奥さんの様子とを憶い出した。あの時の「おれが死んだら」は単純な仮定であった。今私が聞くのはいつ起るか分らない事実であった。 青空文庫 Kindle版 p.123

私は東京を立つ時、心のうちで極めた、この夏中の日課を顧みた。私のやった事はこの日課の三が一にも足らなかった。私は今までもこういう不愉快を何度となく重ねて来た。 青空文庫 Kindle版 p.125

私はこの不快の裏に坐りながら、一方に父の病気を考えた。父の死んだ後の事を想像した。そうしてそれと同時に、先生の事を一方に思い浮べた。私はこの不快な心持の両端に地位、教育、性格の全然異なった二人の面影を眺めた。 青空文庫 Kindle版 p.125

「私」は、父の死期が迫る間際になっても父と「先生」を対比します。

私は父に叱られたり、母の機嫌を損じたりするよりも、先生から見下げられるのを遥かに恐れていた。 青空文庫 Kindle版 p.126

母が、「先生」にもう一度手紙を出して地位の周旋を頼んだらどうか、生きている間に職が決まればお父さんが喜ぶと言います。

我々は子として親の死ぬのを待っているようなものであった。 青空文庫 Kindle版 p.133

父が危篤に陥るのは時間の問題です。

それでも久しぶりにこう落ち合ってみると、兄弟の優しい心持がどこからか自然に湧いて出た。場合が場合なのもその大きな源因になっていた。二人に共通な父、その父の死のうとしている枕元で、兄と私は握手したのであった。 青空文庫 Kindle版 p.134

兄が実家に帰ってきました。「私」と兄はそれほど仲のいい兄弟ではありませんでした。

先生先生と私が尊敬する以上、その人は必ず著名の士でなくてはならないように兄は考えていた。少なくとも大学の教授ぐらいだろうと推察していた。名もない人、何もしていない人、それがどこに価値をもっているだろう。兄の腹はこの点において、父と全く同じものであった。けれども父が何もできないから遊んでいるのだと速断するのに引きかえて、兄は何かやれる能力があるのに、ぶらぶらしているのは詰らん人間に限るといった風の口吻を洩らした。 青空文庫 Kindle版 p.135

「私」が尊敬している「先生」のことを、父も兄もよく思っていないようです。しかし、二人の考え方には違いがあります。

私は死に瀕している父の手前、その父に幾分でも安心させてやりたいと祈りつつある母の手前、働かなければ人間でないようにいう兄の手前、その他妹の夫だの伯父だの叔母だのの手前、私のちっとも頓着していない事に、神経を悩まさなければならなかった。 青空文庫 Kindle版 p.136

兄は私を土の臭いを嗅いで朽ちて行っても惜しくないように見ていた。
「本を読むだけなら、田舎でも充分できるし、それに働く必要もなくなるし、ちょうど好いだろう」 青空文庫 Kindle版 p.136

お前ここへ帰って来て、宅の事を監理する気がないか」と兄が私を顧みた。 青空文庫 Kindle版 p.136

父が亡くなっても母がこの土地を離れることは考えられません。兄は、「私」に実家のこと、母のことを任せようと考えています。兄の考えと「私」の考えには隔たりがあります。

父の意識には暗い所と明るい所とできて、その明るい所だけが、闇を縫う白い糸のように、ある距離を置いて連続するようにみえた。母が昏睡状態を普通の眠りと取り違えたのも無理はなかった。 青空文庫 Kindle版 p.138

父はとうとう昏睡状態に陥ります。

「あなたから過去を問いただされた時、答える事のできなかった勇気のない私は、今あなたの前に、それを明白に物語る自由を得たと信じます。しかしその自由はあなたの上京を待っているうちにはまた失われてしまう世間的の自由に過ぎないのであります。したがって、それを利用できる時に利用しなけれ ば、私の過去をあなたの頭に間接の経験として教えて上げる機会を永久に逸するようになります。そうすると、あの時あれほど堅く約束した言葉がまるで噓になります。私はやむを得ず、口でいうべきところを、筆で申し上げる事にしました」 青空文庫 Kindle版 p.141

「先生」から届いた長い手紙の最初の部分です。「私」は突然不安に襲われます。

「この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょう」 青空文庫 Kindle版 p.143

その時私の知ろうとするのは、ただ先生の安否だけであった。先生の過去、かつて先生が私に話そうと約束した薄暗いその過去、そんなものは私に取って、全く無用であった。 青空文庫 Kindle版 p.143

そうして思い切った勢いで東京行きの汽車に飛び乗ってしまった。私はごうごう鳴る三等列車の中で、また袂から先生の手紙を出して、ようやく始めからしまいまで眼を通した。 青空文庫 Kindle版 p.144

父の死が寸前に迫っているにもかかわらず、「私」は母と兄に簡単な手紙を書いて汽車に飛び乗ってしまいました。

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下 先生と遺書

あらすじ

 遺書には、「先生」の両親が亡くなった時のことから、「先生」の自殺の決意までが書かれています。

 両親が亡くなった後、「先生」は叔父の世話になりました。
 「先生」の父が亡くなった後の家には叔父が住んでくれることになりました。
 「先生」は、高等学校が休みに入ると喜んで実家に帰りました。
叔父は自分の娘と「先生」を結婚させようとしますが「先生」は断ります。
 それが原因なのか、「先生」に対する叔父の家族の態度が悪い方向に変わっていきます。
 叔父は、「先生」が相続すべき財産の多くをごまかして自分のものにしてしまいました。
 それでも、「先生」は学生としては余裕のある財産を受け取ります。
 この余裕が「先生」を思いもよらぬ境遇に陥れます。

 「先生」は素人下宿に引っ越します。軍人の未亡人、一人娘と下女の三人暮らしの家です。
 「先生」はこの「お嬢さん」に心を寄せます。結婚まで考えますが、なかなか未亡人の「奥さん」に話すことができません。
 「先生」は、友だちの「K」をこの下宿に連れて来て一緒に住みます。このことが「先生」の運命に暗い影を落とすことになります。
 「先生」は、苦しい立場になった「K」に同情し、剛情な「K」に気を使いながら「K」を援助します。
 「先生」は、「K」に話しかけてやるように「お嬢さん」と「奥さん」に頼みます。
 「K」と「お嬢さん」が「K」の部屋で話をするようになり、「先生」の「K」に対する心が変わっていきます。
 「先生」は、「K」から「お嬢さん」に対する切ない恋の思いを打ち明けられます。
 「先生」は、「K]の行動が気になって全く落ち着くことができません。
 「先生」は、「奥さん」に「お嬢さんを下さい」とお願いし、結婚の同意を得ます。

「K」は自殺します。

「先生」とお嬢さんは結婚します。

「先生」夫婦は幸福には違いありませんでした。—暗黒の一点を抱えながら—

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センテンスのピックアップ

実をいうと、私はこの自分をどうすれば好いのかと思い煩っていたところなのです。このまま人間の中に取り残されたミイラのように存在して行こうか、それとも……その時分の私は「それとも」という言葉を心のうちで繰り返すたびにぞっとしました。馳足で絶壁の端まで来て、急に底の見えない谷 を覗き込んだ人のように。 青空文庫 Kindle版 p.145 馳足(かけあし)

私はこういう矛盾な人間なのです。あるいは私の脳髄よりも、私の過去が私を圧迫する結果こんな矛盾な人間に私を変化させるのかも知れません。 青空文庫 Kindle版 p.147

けれども私は義務に冷淡だからこうなったのではありません。むしろ鋭敏過ぎて刺戟に堪えるだけの精力がないから、ご覧のように消極的な月日を送る事になったのです。 青空文庫 Kindle版 p.148

私は何千万といる日本人のうちで、ただあなただけに、私の過去を物語りたいのです。あなたは真面目だから。あなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たいといったから。
私は暗い人世の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけて上げます。しかし恐れてはいけません。暗いものを凝と見詰めて、その中からあなたの参考になるものをお攫みなさい。私の暗いというのは、固より倫理的に暗いのです。 青空文庫 Kindle版 p.148 攫み(つかみ)

私はあなたの意見を軽蔑までしなかったけれども、決して尊敬を払い得る程度にはなれなかった。あなたの考えには何らの背景もなかったし、あなたは 自分の過去をもつには余りに若過ぎたからです。 青空文庫 Kindle版 p.149

私はその時心のうちで、始めてあなたを尊敬した。あなたが無遠慮に私の腹の中から、或る生きたものを捕まえようという決心を見せたからです。私の心臓を立ち割って、温かく流れる血潮を啜ろうとしたからです。 青空文庫 Kindle版 p.149 啜ろう(すすろう)

私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです。私の鼓動が停った時、あなたの胸に新しい命が宿る事ができるなら満足です。 青空文庫 Kindle版 p.149

ただこういう風に物を解きほどいてみたり、またぐるぐる廻して眺めたりする癖は、もうその時分から、私にはちゃんと備わっていたのです。 青空文庫 Kindle版 p.151

この性分が倫理的に個人の行為やら動作の上に及んで、私は後来ますます他の徳義心を疑うようになったのだろうと思うのです。それが私の煩悶や苦悩に向って、積極的に大きな力を添えているのは慥かですから覚えていて下さい。 青空文庫 Kindle版 p.151 慥か(たしか)

何も知らない私は、叔父を信じていたばかりでなく、常に感謝の心をもって、叔父をありがたいもののように尊敬していました。叔父は事業家でした。県会議員にもなりました。その関係からでもありましょう、政党にも縁故があったように記憶しています。父の実の弟ですけれども、そういう点で、性格からいうと父とはまるで違った方へ向いて発達したようにも見えます。父は先祖から譲られた遺産を大事に守って行く篤実一方の男でした。 青空文庫 Kindle版 p.153

父や母が亡くなって、万事その人の世話にならなければならない私には、もう単なる誇りではなかったのです。私の存在に必要な人間になっていたのです。 青空文庫 Kindle版 p.154

あなたの郷里でも同じ事だろうと思いますが、田舎では由緒のある家を、相続人があるのに壊したり売ったりするのは大事件です。今の私ならそのくらいの事は何とも思いませんが、その頃はまだ子供でしたから、東京へは出たし、家はそのままにして置かなければならず、はなはだ所置に苦しんだのです。
叔父は仕方なしに私の空家へはいる事を承諾してくれました。 青空文庫 Kindle版 p.155

子供らしい私は、故郷を離れても、まだ心の眼で、懐かしげに故郷の家を望んでいました。固よりそこにはまだ自分の帰るべき家があるという旅人の心で望んでいたのです。休みが来れば帰らなくてはならないという気分は、いくら東京を恋しがって出て来た私にも、力強くあったのです。私は熱心に勉強し、愉快に遊んだ後、休みには帰れると思うその故郷の家をよく夢に見ました。 青空文庫 Kindle版 p.155-156

彼らの主意は単簡でした。早く嫁を貰ってここの家へ帰って来て、亡くなった父の後を相続しろというだけなのです。 青空文庫 Kindle版 p.156

「彼ら」とは、叔父、叔母のことです。

私は再びそこで故郷の匂いを嗅ぎました。その匂いは私に取って依然として懐かしいものでありました。一学年の単調を破る変化としても有難いものに違いなかったのです。 青空文庫 Kindle版 p.157-158

その当人というのは叔父の娘すなわち私の従妹に当る女でした。 青空文庫 Kindle版 p.158

二回目の帰省のときには、自分の娘と結婚しろと叔父が言います。

私は小供のうちから市にいる叔父の家へ始終遊びに行きました。ただ行くばかりでなく、よくそこに泊りました。そうしてこの従妹とはその時分から親しかったのです。 青空文庫 Kindle版 p.158

始終接触して親しくなり過ぎた男女の間には、恋に必要な刺戟の起る清新な感じが失われてしまうように考えています。香をかぎ得るのは、香を焚き出した瞬間に限るごとく、酒を味わうのは、酒を飲み始めた刹那にあるごとく、恋の衝動にもこういう際どい一点が、時間の上に存在しているとしか思われないのです。一度平気でそこを通り抜けたら、馴れれば馴れるほど、親しみが増すだけで、恋の神経はだんだん麻痺して来るだけです。私はどう考え直しても、この従妹を妻にする気にはなれませんでした。 青空文庫 Kindle版 p.158-159

私はまた断りました。叔父は厭な顔をしました。従妹は泣きました。 青空文庫 Kindle版 p.159

「私が三度目に帰国したのは、それからまた一年経った夏の取付でした。私はいつでも学年試験の済むのを待ちかねて東京を逃げました。私には故郷がそれほど懐かしかったからです。 青空文庫 Kindle版 p.159

ところが帰って見ると叔父の態度が違っています。
・・・・・すると妙なのは、叔父ばかりではないのです。叔母も妙なのです。従妹も妙なのです。 青空文庫 Kindle版 p.160

私の性分として考えずにはいられなくなりました。どうして私の心持がこう変ったのだろう。いやどうして向うがこう変ったのだろう。私は突然死んだ父や母が、鈍い私の眼を洗って、急に世の中が判然見えるようにしてくれたのではないかと疑いました。 青空文庫 Kindle版 p.160

もっともその頃でも私は決して理に暗い質ではありませんでした。しかし先祖から譲られた迷信の塊りも、強い力で私の血の中に潜んでいたのです。今 でも潜んでいるでしょう。 青空文庫 Kindle版 p.161

俄然として心づいたのです。何の予感も準備もなく、不意に来たのです。不意に彼と彼の家族が、今までとはまるで別物のように私の眼に映ったのです。 私は驚きました。 青空文庫 Kindle版 p.161

忙しがらなくては当世流でないのだろうと、皮肉にも解釈していたのです。けれども財産の事について、時間の掛かる話をしようという目的ができた眼で、この忙しがる様子を見ると、それが単に私を避ける口実としか受け取れなくなって来たのです。私は容易に叔父を捕まえる機会を得ませんでした。私は叔父が市の方に妾をもっているという噂を聞きました。 青空文庫 Kindle版 p.162 妾(めかけ)

私はとうとう叔父と談判を開きました。 青空文庫 Kindle版 p.163

実をいうと、私はこれより以上に、もっと大事なものを控えているのです。私のペンは早くからそこへ辿りつきたがっているのを、漸との事で抑えつけているくらいです。 青空文庫 Kindle版 p.163

あなたはまだ覚えているでしょう、私がいつかあなたに、造り付けの悪人が世の中にいるものではないといった事を。多くの善人がいざという場合に突然悪人になるのだから油断してはいけないといった事を。 青空文庫 Kindle版 p.163

普通のものが金を見て急に悪人になる例として、世の中に信用するに足るものが存在し得ない例として、憎悪と共に私はこの叔父を考えていたのです。 青空文庫 Kindle版 p.164

私は冷やかな頭で新しい事を口にするよりも、熱した舌で平凡な説を述べる方が生きていると信じ ています。血の力で体が動くからです。言葉が空気に波動を伝えるばかりでなく、もっと強い物にもっと強く働き掛ける事ができるからです。 青空文庫 Kindle版 p.164

「一口でいうと、叔父は私の財産を胡魔化したのです。事は私が東京へ出ている三年の間に容易く行われたのです。すべてを叔父任せにして平気でいた 私は、世間的にいえば本当の馬鹿でした。世間的以上の見地から評すれば、あるいは純なる尊い男とでもいえましょうか。私はその時の己れを顧みて、なぜもっと人が悪く生れて来なかったかと思うと、正直過ぎた自分が口惜しくって堪りません。 青空文庫 Kindle版 p.164

記憶して下さい、あなたの知っている私は塵に汚れた後の私です。きたなくなった年数の多いものを先輩と呼ぶならば、私はたしかにあなたより先輩でしょう。 青空文庫 Kindle版 p.164

叔父は策略で娘を私に押し付けようとしたのです。好意的に両家の便宜を計るというよりも、ずっと下卑た利害心に駆られて、結婚問題を私に向けたの です。 青空文庫 Kindle版 p.165 下卑た(げびた)

私は永く故郷を離れる決心をその時に起したのです。叔父の顔を見まいと心のうちで誓ったのです。
私は国を立つ前に、また父と母の墓へ参りました。私はそれぎりその墓を見た事がありません。もう永久に見る機会も来ないでしょう。 青空文庫 Kindle版 p.166

けれども学生として生活するにはそれで充分以上でした。実をいうと私はそれから出る利子の半分も使えませんでした。この余裕ある私の学生生活が私を思いも寄らない境遇に陥し入れたのです。 青空文庫 Kindle版 p.166

私は移った日に、その室の床に活けられた花と、その横に立て懸けられた琴を見ました。どっちも私の気に入りませんでした。私は詩や書や煎茶を嗜なむ父の傍で育ったので、唐めいた趣味を小供のうちからもっていました。そのためでもありましょうか、こういう艶めかしい装飾をいつの間にか軽蔑する癖が付いていたのです。 青空文庫 Kindle版 p.169-170

「先生」は騒々しい下宿を出て、新しい家に引っ越しました。素人下宿です。

ところがその推測が、お嬢さんの顔を見た瞬間に、悉く打ち消されました。そうして私の頭の中へ今まで想像も及ばなかった異性の匂いが新しく入って 来ました。私はそれから床の正面に活けてある花が厭でなくなりました。同じ床に立て懸けてある琴も邪魔にならなくなりました。 青空文庫 Kindle 版p.171 悉く(ことごとく)

私は喜んでこの下手な活花を眺めては、まずそうな琴の音に耳を傾けました。 青空文庫 Kindle版 p.171

「私の気分は国を立つ時すでに厭世的になっていました。他は頼りにならないものだという観念が、その時骨の中まで染み込んでしまったように思われたのです。私は私の敵視する叔父だの叔母だの、その他の親戚だのを、あたかも人類の代表者のごとく考え出しました。汽車へ乗ってさえ隣のものの様子を、それとなく注意し始めました。たまに向うから話し掛けられでもすると、なおの事警戒を加えたくなりました。私の心は沈鬱でした。鉛を呑んだように重苦しくなる事が時々ありました。それでいて私の神経は、今いったごとくに鋭く尖ってしまったのです。 青空文庫 Kindle版 p.172

私は小石川へ引き移ってからも、当分この緊張した気分に寛ぎを与える事ができませんでした。私は自分で自分が恥ずかしいほど、きょときょと周囲を見廻していました。不思議にもよく働くのは頭と眼だけで、口の方はそれと反対 に、段々動かなくなって来ました。 青空文庫 Kindle版 p.172 寛ぎ(くつろぎ)

おれは物を偸まない巾着切みたようなものだ、私はこう考えて、自分が厭になる事さえあったのです。 青空文庫 Kindle版 p.172-173 偸まない(ぬすまない)

あなたは定めて変に思うでしょう。その私がそこのお嬢さんをどうして好く余裕をもっているか。 青空文庫 Kindle版 p.173

私は金に対して人類を疑ったけれども、愛に対しては、まだ人類を疑わなかったのです。だから他から見ると変なものでも、また自分で考えてみて、矛盾したものでも、私の胸のなかでは平気で両立していたのです。 青空文庫 Kindle版 p.173

要するに奥さん始め家のものが、僻んだ私の眼や疑い深い私の様子に、てんから取り合わなかったのが、私に大きな幸福を与えたのでしょう。私の神経は相手から照り返して来る反射のないために段々静まりました。 青空文庫 Kindle版 p.174 僻んだ(ひがんだ)

そうして若い女とただ差向いで坐っているのが不安なのだとばかりは思えませんでした。私は何だかそわそわし出すのです。自分で自分を裏切るような 不自然な態度が私を苦しめるのです。しかし相手の方はかえって平気でした。 青空文庫 Kindle版 p.176

「お嬢さん」と話をするようになった頃の「先生」です。

私の口からいうのは変ですが、奥さんの様子を能く観察していると、何だか自分の娘と私とを接近させたがっているらしくも見えるのです。それでいて、或る場合には、私に対して暗に警戒するところもあるようなのですから、始めてこんな場合に出会った私は、時々心持をわるくしました。私は奥さんの態度をどっちかに片付けてもらいたかったのです。 青空文庫 Kindle版 p.177

それほど女を見縊っていた私が、またどうしてもお嬢さんを見縊る事ができなかったのです。私の理屈はその人の前に全く用を為さないほど動きませんでした。私はその人に対して、ほとんど信仰に近い愛をもっていたのです。 青空文庫 Kindle版 p.178

本当の愛は宗教心とそう違ったものでないという事を固く信じているのです。 青空文庫 Kindle版 p.178

もし愛という不可思議なものに両端があって、その高い端には神聖な感じが働いて、低い端には性欲が動いているとすれば、私の愛はたしかにその高い極点を捕まえたものです。私はもとより人間として肉を離れる事のできない身体でした。けれどもお嬢さんを見る私の眼や、お嬢さんを考える私の心は、全く肉の臭いを帯びていませんでした。
私は母に対して反感を抱くと共に、子に対して恋愛の度を増して行ったのですから、三人の関係は、下宿した始めよりは段々複雑になって来ました。 青空文庫 Kindle版 p.178

ただ自分が正当と認める程度以上に、二人が密着するのを忌むのだと解釈したのです。お嬢さんに対して、肉の方面から近づく念の萌さなかった私は、その時入らぬ心配だと思いました。しかし奥さんを悪く思う気はそれからなくなりました。 青空文庫 Kindle版 p.179

「私は奥さんの態度を色々綜合して見て、私がここの家で充分信用されている事を確かめました。しかもその信用は初対面の時からあったのだという証拠さえ発見しました。他を疑り始めた私の胸には、この発見が少し奇異なくらいに響いたのです。私は男に比べると女の方がそれだけ直覚に富んでいるのだろうと思いました。同時に、女が男のために、欺されるのもここにあるのではなかろうかと思いました。 青空文庫 Kindle版 p.179

私はどういう拍子かふと奥さんが、叔父と同じような意味で、お嬢さんを私に接近させようと力めるのではないかと考え出したのです。すると今まで親切に見えた人が、急に狡猾な策略家として私の眼に映じて来たのです。私は苦々しい唇を嚙みました。 青空文庫 Kindle 版 p.180

私の煩悶は、奥さんと同じようにお嬢さんも策略家ではなかろうかという疑問に会って始めて起るのです。 青空文庫 Kindle版 p.181

それでいて私は、一方にお嬢さんを固く信じて疑わなかったのです。だから私は信念と迷いの途中に立って、少しも動く事ができなくなってしまいました。 青空文庫 Kindle版 p.181

ただそこにどうでもよくない事が一つあったのです。茶の間か、さもなければお嬢さんの室で、突然男の声が聞こえるのです。 青空文庫 Kindle 版 p.182

私の神経は震えるというよりも、大きな波動を打って私を苦しめます。 青空文庫 Kindle版 p.182

私は自分の品格を重んじなければならないという教育から来た自尊心と、現にその自尊心を裏切している物欲しそうな顔付とを同時に彼らの前に示すのです。 青空文庫 Kindle版 p.183

しかし私は誘き寄せられるのが厭でした。他の手に乗るのは何よりも業腹でした。叔父に欺された私は、これから先どんな事があっても、人には欺されまいと決心したのです。 青空文庫 Kindle版 p.183

奥さんとお嬢さんと私の関係がこうなっている所へ、もう一人男が入り込まなければならない事になりました。その男がこの家庭の一員となった結果は、私の運命に非常な変化を来しています。もしその男が私の生活の行路を横切らなかったならば、おそらくこういう長いものをあなたに書き残す必要も起らなかったでしょう。私は手もなく、魔の通る前に立って、その瞬間の影に一生を薄暗くされて気が付かずにいたのと同じ事です。自白すると、私は自分でその男を宅へ引張って来たのです。 青空文庫 Kindle版 p.188

Kと私も二人で同じ間にいました。山で生捕られた動物が、檻の中で抱き合いながら、外を睨めるようなものでしたろう。二人は東京と東京の人を畏れました。それでいて六畳の間の中では、天下を睥睨するような事をいっていたのです。 青空文庫 Kindle版 p.189 睥睨(へいげい)

寺に生れた彼は、常に精進という言葉を使いました。そうして彼の行為動作は悉くこの精進の一語で形容されるように、私には見えたのです。私は心のうちで常にKを畏敬していました。
Kは中学にいた頃から、宗教とか哲学とかいうむずかしい問題で、私を困らせました。 青空文庫 Kindle版 p.190

私の郷里で暮らしたその二カ月間が、私の運命にとって、いかに波瀾に富んだものかは、前に書いた通りですから繰り返しません。私は不平と幽欝と孤独の淋しさとを一つ胸に抱いて、九月に入ってまたKに逢いました。 青空文庫 Kindle版 p.193

Kはただ学問が自分の目的ではないと主張するのです。意志の力を養って強い人になるのが自分の考えだというのです。それにはなるべく窮屈な境遇にいなくてはならないと結論するのです。普通の人から見れば、まるで酔興です。その上窮屈な境遇にいる彼の意志は、ちっとも強くなっていないのです。彼はむしろ神経衰弱に罹っているくらいなのです。私は仕方がないから、彼に向って至極同感であるような様子を見せました。 青空文庫 Kindle版 p.198

最後に私はKといっしょに住んで、いっしょに向上の路を辿って行きたいと発議しました。私は彼の剛情を折り曲げるために、彼の前に跪く事をあえてしたのです。そうして漸との事で彼を私の家に連れて来ました。 青空文庫 Kindle版 p.198

私は溺れかかった人を抱いて、自分の熱を向うに移してやる覚悟で、Kを引き取るのだと告げました。 青空文庫 Kindle版 p.200

仏教の教義で養われた彼は、衣食住についてとかくの贅沢をいうのをあたかも不道徳のように考えていました。なまじい昔の高僧だとか聖徒だとかの伝を読んだ彼には、ややともすると精神と肉体とを切り離したがる癖がありました。肉を鞭撻すれば霊の光輝が増すように感ずる場合さえあったのかも知れません。
私はなるべく彼に逆らわない方針を取りました。私は氷を日向へ出して溶かす工夫をしたのです。今に融けて温かい水になれば、自分で自分に気が付く時機が来るに違いないと思ったのです。 青空文庫 Kindle版 p.200-201

私にいわせると、彼は我慢と忍耐の区別を了解していないように思われたのです。これはとくにあなたのために付け足しておきたいのですから聞いて下さい。肉体なり精神なりすべて我々の能力は、外部の刺戟で、発達もするし、破壊されもするでしょうが、どっちにしても刺戟を段々に強くする必要のあるのは無論ですから、よく考えないと、非常に険悪な方向へむいて進んで行きながら、自分はもちろん傍のものも気が付かずにいる恐れが生じてきます。 青空文庫 Kindle版 p.201-202

ただ困難に慣れてしまえば、しまいにその困難は何でもなくなるものだと極めていたらしいのです。艱苦を繰り返せば、繰り返すというだけの功徳で、その艱苦が気にかからなくなる時機に邂逅えるものと信じ切っていたらしいのです。 青空文庫. Kindle 版. p.202 艱苦(かんく) 邂逅える(めぐりあえる)

私は彼と喧嘩をする事は恐れてはいませんでしたけれども、私が孤独の感に堪えなかった自分の境遇を顧みると、親友の彼を、同じ孤独の境遇に置くのは、私に取って忍びない事でした。一歩進んで、より孤独な境遇に突き落すのはなお厭でした。 青空文庫 Kindle版 p.203

私は彼のこれまで通って来た無言生活が彼に祟っているのだろうと信じたからです。使わない鉄が腐るように、彼の心には錆が出ていたとしか、私には思われなかったのです。 青空文庫 Kindle版 p.203-204

私は何を措いても、この際彼を人間らしくするのが専一だと考えたのです。いくら彼の頭が偉い人の影像で埋まっていても、彼自身が偉くなってゆかない以上は、何の役にも立たないという事を発見したのです。私は彼を人間らしくする第一の手段として、まず異性の傍に彼を坐らせる方法を講じたのです。そうしてそこから出る空気に彼を曝した上、錆び付きかかった彼の血液を新しくしようと試みたのです。 青空文庫 Kindle版 p.205

「私」の「K」を救おうとする心は純粋です。

彼は自分以外に世界のある事を少しずつ悟ってゆくようでした。 青空文庫 Kindle版 p.205

今までの彼は、性によって立場を変える事を知らずに、同じ視線ですべての男女を一様に観察していたのです。私は彼に、もし我ら二人だけが男同志で永久に話を交換しているならば、二人はただ直線的に先へ延びて行くに過ぎないだろうといいました。彼はもっともだと答えました。 青空文庫 Kindle版 p.205

私はこんな時に笑う女が嫌いでした。若い女に共通な点だといえばそれまでかも知れませんが、お嬢さんも下らない事によく笑いたがる女でした。 青空文庫 Kindle版 p.207

彼のふんといったような調子が、依然として女を軽蔑しているように見えたからです。女の代表者として私の知っているお嬢さんを、物の数とも思っていないらしかったからです。今から回顧すると、私のKに対する嫉妬は、その時にもう充分萌していたのです。 青空文庫 Kindle版 p.210

私はただでさえKと宅のものが段々親しくなって行くのを見ているのが、余り好い心持ではなかったのです。 青空文庫 Kindle版 p.210

「K」を救おうとしてしたことが、「私」を苦しめるようになっています。

私は自分の傍にこうじっとして坐っているものが、Kでなくって、お嬢さんだったらさぞ愉快だろうと思う事がよくありました。それだけならまだいいのですが、時にはKの方でも私と同じような希望を抱いて岩の上に坐っているのではないかしらと忽然疑い出すのです。すると落ち付いてそこに書物をひろげているのが急に厭になります。 青空文庫 Kindle版 p.212 忽然(こつぜん)

「私」は「K」を旅行に誘います。誘ったのは「K」を宅に残したくなかったからです。

Kの神経衰弱はこの時もう大分よくなっていたらしいのです。それと反比例に、私の方は段々過敏になって来ていたのです。私は自分より落ち付いているKを見て、羨ましがりました。また憎らしがりました。彼はどうしても私に取り合う気色を見せなかったからです。私にはそれが一種の自信のごとく映りました。 青空文庫 Kindle版 p.212

けれども彼の安心がもしお嬢さんに対してであるとすれば、私は決して彼を許す事ができなくなるのです。不思議にも彼は私のお嬢さんを愛している素振に全く気が付いていないように見えました。無論私もそれがKの眼に付くようにわざとらしくは振舞いませんでしたけれども。Kは元来そういう点にかけると鈍い人なのです。私には最初からKなら大丈夫という安心があったので、彼をわざわざ宅へ連れて来たのです。 青空文庫 Kindle版 p.213

私にいわせると、彼の心臓の周囲は黒い漆で重く塗り固められたのも同然でした。私の注ぎ懸けようとする血潮は、一滴もその心臓の中へは入らないで、悉く弾き返されてしまうのです。 青空文庫 Kindle版 p.214

「K」の精神状態はだいぶ落ち着いてきたようですが、逆に「私」の精神状態が不安定になってきました。援けようとして自分が連れてきた「K」に憎らしささえ感じるようになってしまいます。

――すべて向うの好いところだけがこう一度に眼先へ散らつき出すと、ちょっと安心した私はすぐ元の不安に立ち返るのです。 青空文庫 Kindle版 p.215

Kは昨日自分の方から話しかけた日蓮の事について、私が取り合わなかったのを、快く思っていなかったのです。精神的に向上心がないものは馬鹿だといって、何だか私をさも軽薄もののようにやり込めるのです。 青空文庫 Kindle版 p.218

その時私はしきりに人間らしいという言葉を使いました。Kはこの人間らしいという言葉のうちに、私が自分の弱点のすべてを隠しているというのです。 青空文庫 Kindle版 p.218

私は彼に告げました。――君は人間らしいのだ。あるいは人間らし過ぎるかも知れないのだ。けれども口の先だけでは人間らしくないような事をいうのだ。また人間らしくないように振舞おうとするのだ。 青空文庫 Kindle版 p.218-219

もし私が彼の知っている通り昔の人を知るならば、そんな攻撃はしないだろうといって悵然としていました。Kの口にした昔の人とは、無論英雄でもなければ豪傑でもないのです。霊のために肉を虐げたり、道のために体を鞭うったりしたいわゆる難行苦行の人を指すのです。Kは私に、彼がどのくらいそのために苦しんでいるか解らないのが、いかにも残念だと明言しました。 青空文庫 Kindle版 p.219

私は人間らしいという抽象的な言葉を用いる代りに、もっと直截で簡単な話をKに打ち明けてしまえば好かったと思い出したのです。実をいうと、私がそんな言葉を創造したのも、お嬢さんに対する私の感情が土台になっていたのですから、事実を蒸溜して拵えた理論などをKの耳に吹き込むよりも、原の形そのままを彼の眼の前に露出した方が、私にはたしかに利益だったでしょう。私にそれができなかったのは、学問の交際が基調を構成している二人の親しみに、自から一種の惰性があったため、思い切ってそれを突き破るだけの勇気が私に欠けていたのだという事をここに自白します。気取り過ぎたといっても、虚栄心が祟ったといっても同じでしょうが、私のいう気取るとか虚栄とかいう意味は、普通のとは少し違います。それがあなたに通じさえすれば、私は満足なのです。 青空文庫 Kindle版 p.219-220

つまりお嬢さんは私だけに解るように、持前の親切を余分に私の方へ割り宛ててくれたのです。だからKは別に厭な顔もせずに平気でいました。私は心の中でひそかに彼に対する愷歌を奏しました。 青空文庫 Kindle版 p.221

若い女としてお嬢さんは思慮に富んだ方でしたけれども、その若い女に共通な私の嫌いなところも、あると思えば 思えなくもなかったのです。そうしてその嫌いなところは、Kが宅へ来てから、始めて私の眼に着き出したのです。私はそれをKに対する私の嫉妬に帰していいものか、または私に対するお嬢さんの技巧と見傚してしかるべきものか、ちょっと分別に迷いました。私は今でも決してその時の私の嫉妬心を打ち消す気はありません。私はたびたび繰り返した通り、愛の裏面にこの感情の働きを明らかに意識していたのですから。 青空文庫 Kindle版 p.226

こういう嫉妬は愛の半面じゃないでしょうか。私は結婚してから、この感情がだんだん薄らいで行くのを自覚しました。その代り愛情の方も決して元のように猛烈ではないのです。 青空文庫 Kindle版 p.226

嫉妬心が愛する力を増大させる。愛が成就すればその心は減少していく。けれども愛情も減少していく。現実のように思います。

こっちでいくら思っても、向うが内心他の人に愛の眼を注いでいるならば、私はそんな女といっしょになるのは厭なのです。世の中では否応なしに自分の好いた女を嫁に貰って嬉しがっている人もありますが、それは私たちよりよっぽど世間ずれのした男か、さもなければ愛の心理がよく呑み込めない鈍物のする事と、当時の私は考えていたのです。一度貰ってしまえばどうかこうか落ち付くものだぐらいの哲理では、承知する事ができないくらい私は熱していました。つまり私は極めて高尚な愛の理論家だったのです。同時にもっとも迂遠な愛の実際家だったのです。 青空文庫 Kindle版 p.227

彼の唇がわざと彼の意志に反抗するように容易く開かないところに、彼の言葉の重みも籠っていたのでしょう。一旦声が口を破って出るとなると、その声には普通の人よりも倍の強い力がありました。 青空文庫 Kindle版 p.231

彼の重々しい口から、彼のお嬢さんに対する切ない恋を打ち明けられた時の私を想像してみて下さい。私は彼の魔法棒のために一度に化石されたようなものです。 青空文庫 Kindle版 p.231

その時の私は恐ろしさの塊りといいましょうか、または苦しさの塊りといいましょうか、何しろ一つの塊りでした。石か鉄のように頭から足の先までが急に固くなったのです。呼吸をする弾力性さえ失われたくらいに堅くなったのです。 青空文庫 Kindle版 p.231

彼の自白は最初から最後まで同じ調子で貫いていました。重くて鈍い代りに、とても容易な事では動かせないという感じを私に与えたのです。 青空文庫 Kindle 版 p.232

そのために私は前いった苦痛ばかりでなく、ときには一種の恐ろしさを感ずるようになったのです。つまり相手は自分より強いのだという恐怖の念が萌し始めたのです。 青空文庫 Kindle版 p.232

私には第一に彼が解しがたい男のように見えました。どうしてあんな事を突然私に打ち明けたのか、またどうして打ち明けなければいられないほどに、彼の恋が募って来たのか、そうして平生の彼はどこに吹き飛ばされてしまったのか、すべて私には解しにくい問題でした。 青空文庫 Kindle版 p.234

つまり私には彼が一種の魔物のように思えたからでしょう。私は永久彼に祟られたのではなかろうかという気さえしました。 青空文庫 Kindle版 p.234-235

「私」は「K」の豹変を驚き、「K」を恐れます。「K」は「私」にとって魔物のような存在になります。

例の問題にはしばらく手を着けずにそっとしておく事にしました。
こういってしまえば大変簡単に聞こえますが、そうした心の経過には、潮の満干と同じように、色々の高低があったのです。私はKの動かない様子を見 て、それにさまざまの意味を付け加えました。奥さんとお嬢さんの言語動作を観察して、二人の心がはたしてそこに現われている通りなのだろうかと疑ってもみました。そうして人間の胸の中に装置された複雑な器械が、時計の針のように、明瞭に偽りなく、盤上の数字を指し得るものだろうかと考えました。要するに私は同じ事をこうも取り、ああも取りした揚句、漸くここに落ち付いたものと思って下さい。更にむずかしくいえば、落ち付くなどという言葉は、この際決して使われた義理でなかったのかも知れません。 青空文庫 Kindle版 p.238

私がKに向って、この際何んで私の批評が必要なのかと尋ねた時、彼はいつもにも似ない悄然とした口調で、自分の弱い人間であるのが実際恥ずかしいといいました。そうして迷っているから自分で自分が分らなくなってしまったので、私に公平な批評を求めるより外に仕方がないといいました。 青空文庫 Kindle版 p.241

「K」は「お嬢さん」を思う心で胸の中がいっぱいのようです。「私」に批評を求めます。

もし相手がお嬢さんでなかったならば、私はどんなに彼に都合のいい返事を、その渇き切った顔の上に慈雨の如く注いでやったか分りません。私はそのくらいの美しい同情をもって生れて来た人間と自分ながら信じています。しかしその時の私は違っていました。 青空文庫 Kindle版 p.242

Kが理想と現実の間に彷徨してふらふらしているのを発見した私は、ただ一打で彼を倒す事ができるだろうという点にばかり眼を着けました。そうしてすぐ彼の虚に付け込んだのです。私は彼に向って急に厳粛な改まった態度を示し出しました。無論策略からですが、その態度に相応するくらいな緊張し た気分もあったのですから、自分に滑稽だの羞恥だのを感ずる余裕はありませんでした。私はまず「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」といい放ちました。これは二人で房州を旅行している際、Kが私に向って使った言葉です。 青空文庫 Kindle版 p.242-243

私はその一言でKの前に横たわる恋の行手を塞ごうとしたのです。青空文庫 Kindle版 p.243

Kは昔から精進という言葉が好きでした。私はその言葉の中に、禁欲という意味も籠っているのだろうと解釈していました。しかし後で実際を聞いて見ると、それよりもまだ厳重な意味が含まれているので、私は驚きました。道のためにはすべてを犠牲にすべきものだというのが彼の第一信条なのですから、摂欲や禁欲は無論、たとい欲を離れた恋そのものでも道の妨害になるのです。Kが自活生活をしている時分に、私はよく彼から彼の主張を聞かされたのでした。その頃からお嬢さんを思っていた私は、勢いどうしても彼に反対しなければならなかったのです。 青空文庫 Kindle版 p.243

精神的に向上心のないものは馬鹿だという言葉は、Kに取って痛いに違いなかったのです。 青空文庫 Kindle版 p.243

私はただKが急に生活の方向を転換して、私の利害と衝突するのを恐れたのです。要するに私の言葉は単なる利己心の発現でした。 青空文庫 Kindle版 p.244

ただKは私を窘めるには余りに正直でした。余りに単純でした。余りに人格が善良だったのです。目のくらんだ私は、そこに敬意を払う事を忘れて、かえってそこに付け込んだのです。そこを利用して彼を打ち倒そうとしたのです。 青空文庫 Kindle版 p.245  窘める(たしなめる)

するとKは、「止めてくれ」と今度は頼むようにいい直しました。私はその時彼に向って残酷な答を与えたのです。狼が隙を見て羊の咽喉笛へ食い付くように。「止めてくれって、僕がいい出した事じゃない、もともと君の方から持ち出した話じゃないか。しかし君が止めたければ、止めてもいいが、ただ口の先で止めたって仕方があるまい。君の心でそれを止めるだけの覚悟がなければ。一体君は君の平生の主張をどうするつもりなのか」 青空文庫 Kindle版 p.245

すると彼は卒然「覚悟?」と聞きました。そうして私がまだ何とも答えない先に「覚悟、――覚悟ならない事もない」と付け加えました。彼の調子は独言のようでした。また夢の中の言葉のようでした。 青空文庫 Kindle版 p.246

昨日上野で「その話はもう止めよう」といったではないかと注意するごとくにも聞こえました。Kはそういう点に掛けて鋭い自尊心をもった男なのです。ふとそこに気のついた私は突然彼の用いた「覚悟」という言葉を連想し出しました。すると今までまるで気にならなかったその二字が妙な力で私の 頭を抑え始めたのです。 青空文庫 Kindle版 p.249

「私」は「K」を辛辣に批判しました。「私」の「K」に対する心は、同情から憎悪に変わり、「K」を援けるどころか「K」への攻撃に変わってしまいました。「K」の「覚悟」という言葉は気になります。

私は突然「奥さん、お嬢さんを私に下さい」といいました。 青空文庫 Kindle版 p.252

ところが「覚悟」という彼の言葉を、頭のなかで何遍も咀嚼しているうちに、私の得意はだんだん色を失って、しまいにはぐらぐら揺き始めるようになりました。私はこの場合もあるいは彼にとって例外でないのかも知れないと思い出したのです。すべての疑惑、煩悶、懊悩、を一度に解決する最後の手段を、彼は胸のなかに畳み込んでいるのではなかろうかと疑り始めたのです。そうした新しい光で覚悟の二字を眺め返してみた私は、はっと驚きました。その時の私がもしこの驚きをもって、もう一返彼の口にした覚悟の内容を公平に見廻したらば、まだよかったかも知れません。悲しい事に私は片眼でした。私はただKがお嬢さんに対して進んで行くという意味にその言葉を解釈しました。果断に富んだ彼の性格が、恋の方面に発揮されるのがすなわち彼の覚悟だろうと一図に思い込んでしまったのです。
私は私にも最後の決断が必要だという声を心の耳で聞きました。私はすぐその声に応じて勇気を振り起しました。私はKより先に、しかもKの知らない間に、事を運ばなくてはならないと覚悟を極めました。 青空文庫 Kindle版 p.249-250

私はこの長い散歩の間ほとんどKの事を考えなかったのです。今その時の私を回顧して、なぜだと自分に聞いてみても一向分りません。ただ不思議に思うだけです。私の心がKを忘れ得るくらい、一方に緊張していたとみればそれまでですが、私の良心がまたそれを許すべきはずはなかったのですから。 青空文庫 Kindle版 p.255

Kに対する私の良心が復活したのは、私が宅の格子を開けて、玄関から坐敷へ通る時、すなわち例のごとく彼の室を抜けようとした瞬間でした。p.255). 青空文庫 Kindle版 p.255

彼は「病気はもう癒いのか、医者へでも行ったのか」と聞きました。私はその刹那に、彼の前に手を突いて、詫まりたくなったのです。しかも私の受けたその時の衝動は決して弱いものではなかったのです。もしKと私がたった二人曠野の真中にでも立っていたならば、私はきっと良心の命令に従って、その場で彼に謝罪したろうと思います。しかし奥には人がいます。私の自然はすぐそこで食い留められてしまったのです。そうして悲しい事に永久に復活しなかったのです。 青空文庫 Kindle版 p.255

私は何とかして、私とこの家族との間に成り立った新しい関係を、Kに知らせなければならない位置に立ちました。しかし倫理的に弱点をもっていると、自分で自分を認めている私には、それがまた至難の事のように感ぜられたのです。 青空文庫 Kindle版 p.257

もし奥さんにすべての事情を打ち明けて頼むとすれば、私は好んで自分の弱点を自分の愛人とその母親の前に曝け出さなければなりません。真面目な私には、それが私の未来の信用に関するとしか思われなかったのです。結婚する前から恋人の信用を失うのは、たとい一分一厘でも、私には堪え切れない不幸のように見えました。
要するに私は正直な路を歩くつもりで、つい足を滑らした馬鹿ものでした。もしくは狡猾な男でした。そうしてそこに気のついているものは、今のところただ天と私の心だけだったのです。しかし立ち直って、もう一歩前へ踏み出そうとするには、今滑った事をぜひとも周囲の人に知られなければならない窮境に陥ったのです。私はあくまで滑った事を隠したがりました。同時に、どうしても前へ出ずにはいられなかったのです。私はこの間に挟まってまた立ち竦みました。青空文庫 Kindle版 p.257-258

五、六日経った後、奥さんは突然私に向って、Kにあの事を話したかと聞くのです。私はまだ話さないと答えました。するとなぜ話さないのかと、奥さんが私を詰るのです。私はこの問いの前に固くなりました。その時奥さんが私を驚かした言葉を、私は今でも忘れずに覚えています。「道理で妾が話したら変な顔をしていましたよ。あなたもよくないじゃありませんか。平生あんなに親しくしている間柄だのに、黙って知らん顔をしているのは」 青空文庫 Kindle版 p.258

奥さんのいうところを綜合して考えてみると、Kはこの最後の打撃を、最も落ち付いた驚きをもって迎えたらしいのです。Kはお嬢さんと私との間に結ばれた新しい関係について、最初はそうですかとただ一口いっただけだったそうです。青空文庫. Kindle 版. p.258)

彼と私を頭の中で並べてみると、彼の方が遥かに立派に見えました。「おれは策略で勝っても人間としては負けたのだ」という感じが私の胸に渦巻いて起りました。私はその時さぞKが軽蔑している事だろうと思って、一人で顔を赧らめました。しかし今更Kの前に出て、恥を搔かせられるのは、私の自尊心にとって大いな苦痛でし た。
私が進もうか止そうかと考えて、ともかくも翌日まで待とうと決心したのは土曜の晩でした。ところがその晩に、Kは自殺して死んでしまったのです。 青空文庫 Kindle版 p.259

「私」が「お嬢さん」と結婚することになったことを「K」に伝える前に「K」は自殺してしまいました。

その時私の受けた第一の感じは、Kから突然恋の自白を聞かされた時のそれとほぼ同じでした。私の眼は彼の室の中を一目見るや否や、あたかも硝子で作った義眼のように、動く能力を失いました。私は棒立ちに立ち竦みました。それが疾風のごとく私を通過したあとで、私はまたああ失策ったと思いました。もう取り返しが付かないという黒い光が、私の未来を貫いて、一瞬間に私の前に横たわる全生涯を物凄く照らしました。そうして私はがたがた顫え出したのです。 青空文庫 Kindle版 p.260

手紙の内容は簡単でした。そうしてむしろ抽象的でした。自分は薄志弱行で到底行先の望みがないから、自殺するというだけなのです。それから今まで私に世話になった礼が、ごくあっさりとした文句でその後に付け加えてありました。 青空文庫 Kindle版 p.261

しかし私のもっとも痛切に感じたのは、最後に墨の余りで書き添えたらしく見える、もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろうという意味の文句でした。 青空文庫 Kindle版 p.261

私は忽然と冷たくなったこの友達によって暗示された運命の恐ろしさを深く感じたのです。 青空文庫 Kindle版 p.262

私の起きた時間は、正確に分らないのですけれども、もう夜明に間もなかった事だけは明らかです。ぐるぐる廻りながら、その夜明を待ち焦れた私は、永久に暗い夜が続くのではなかろうかという思いに悩まされました。 青空文庫 Kindle版 p.263

その時私は突然奥さんの前へ手を突いて頭を下げました。「済みません。私が悪かったのです。あなたにもお嬢さんにも済まない事になりました」と詫まりました。私は奥さんと向い合うまで、そんな言葉を口にする気はまるでなかったのです。しかし奥さんの顔を見た時不意に我とも知らずそういってしまったのです。Kに詫まる事のできない私は、こうして奥さんとお嬢さんに詫びなければいられなくなったのだと思って下さい。つまり私の自然が平生の私を出し抜いてふらふらと懺悔の口を開かしたのです。 青空文庫 Kindle版 p.263-264

私がお嬢さんの顔を見たのは、昨夜来この時が始めてでした。お嬢さんは泣いていました。奥さんも眼を赤くしていました。事件が起ってからそれまで泣く事を忘れていた私は、その時ようやく悲しい気分に誘われる事ができたのです。私の胸はその悲しさのために、どのくらい寛ろいだか知れません。苦痛と恐怖でぐいと握り締められた私の心に、一滴の潤を与えてくれたものは、その時の悲しさでした。 青空文庫 Kindle版 p.265

悲しい状態になった時には、苦痛や恐怖心などの他の感情が和らぐということは確かにあるものです。一時的なものにせよ。

若い美しい人に恐ろしいものを見せると、折角の美しさが、そのために破壊されてしまいそうで私は怖かったのです。私の恐ろしさが私の髪の毛の末端まで来た時ですら、私はその考えを度外に置いて行動する事はできませんでした。私には綺麗な花を罪もないのに妄りに鞭うつと同じような不快がそのうちに籠っていたのです。 青空文庫 Kindle版 p.266 妄りに(みだりに)

私も今その約束通りKを雑司ヶ谷へ葬ったところで、どのくらいの功徳になるものかとは思いました。けれども私は私の生きている限り、Kの墓の前に跪いて月々私の懺悔を新たにしたかったのです。今まで構い付けなかったKを、私が万事世話をして来たという義理もあったのでしょう、Kの父も兄も 私のいう事を聞いてくれました。 青空文庫 Kindle版 p.266

「Kの葬式の帰り路に、私はその友人の一人から、Kがどうして自殺したのだろうという質問を受けました。事件があって以来私はもう何度となくこの質問で苦しめられていたのです。奥さんもお嬢さんも、国から出て来たKの父兄も、通知を出した知り合いも、彼とは何の縁故もない新聞記者までも、必ず同様の質問を私に掛けない事はなかったのです。私の良心はそのたびにちくちく刺されるように痛みました。そうして私はこの質問の裏に、早くお前が殺したと白状してしまえという声を聞いたのです。 青空文庫 Kindle版 p.266-267

私はとうとうお嬢さんと結婚しました。外側から見れば、万事が予期通りに運んだのですから、目出度といわなければなりません。奥さんもお嬢さんもいかにも幸福らしく見えました。私も幸福だったのです。けれども私の幸福には黒い影が随いていました。私はこの幸福が最後に私を悲しい運命に連れて行く導火線ではなかろうかと思いました。 青空文庫 Kindle版 p.268

私はその新しい墓と、新しい私の妻と、それから地面の下に埋められたKの新しい白骨とを思い比べて、運命の冷罵を感ぜずにはいられなかったのです。私はそれ以後決して妻といっしょにKの墓参りをしない事にしました。 青空文庫 Kindle版 p.268-269

しかし自分で自分の先が見えない人間の事ですから、ことによるとあるいはこれが私の心持を一転して新しい生涯に入る端緒になるかも知れないとも思ったのです。ところがいよいよ夫として朝夕妻と顔を合せてみると、私の果敢ない希望は手厳しい現実のために脆くも破壊されてしまいました。私は妻と顔を合せているうちに、卒然Kに脅かされるのです。つまり妻が中間に立って、Kと私をどこまでも結び付けて離さないようにするのです。 青空文庫 Kindle版 p.269

しまいには「あなたは私を嫌っていらっしゃるんでしょう」とか、「何でも私に隠していらっしゃる事があるに違いない」とかいう怨言も聞かなくてはなりません。私はそのたびに苦しみました。 青空文庫 Kindle版 p.269-270

その時分の私は妻に対して己れを飾る気はまるでなかったのです。もし私が亡友に対すると同じような善良な心で、妻の前に懺悔の言葉を並べたなら、妻は嬉し涙をこぼしても私の罪を許してくれたに違いないのです。それをあえてしない私に利害の打算があるはずはありません。私はただ妻の記憶に暗黒な一点を印するに忍びなかったから打ち明けなかったのです。純白なものに一雫の印気でも容赦なく振り掛けるのは、私にとって大変な苦痛だったのだと解釈して下さい。 青空文庫 Kindle版 p.270

けれども無理に目的を拵えて、無理にその目的の達せられる日を待つのは噓ですから不愉快です。私はどうしても書物のなかに心を埋めていられなくなりました。私はまた腕組みをして世の中を眺めだしたのです。 青空文庫 Kindle版 p.270

叔父に欺かれた当時の私は、他の頼みにならない事をつくづくと感じたには相違ありませんが、他を悪く取るだけあって、自分はまだ確かな気がしていました。世間はどうあろうともこの己は立派な人間だという信念がどこかにあったのです。それがKのために美事に破壊されてしまって、自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、私は急にふらふらしました。他に愛想を尽かした私は、自分にも愛想を尽かして動けなくなったのです。 青空文庫 Kindle版 p.271

私は爛酔の真最中にふと自分の位置に気が付くのです。自分はわざとこんな真似をして己れを偽っている愚物だという事に気が付くのです。すると身振いと共に眼も心も醒めてしまいます。時にはいくら飲んでもこうした仮装状態にさえ入り込めないでむやみに沈んで行く場合も出て来ます。その上技巧で愉快を買った後には、きっと沈鬱な反動があるのです。 青空文庫 Kindle版 p.271-272

私は妻から何のために勉強するのかという質問をたびたび受けました。私はただ苦笑していました。しかし腹の底では、世の中で自分が最も信愛しているたった一人の人間すら、自分を理解していないのかと思うと、悲しかったのです。理解させる手段があるのに、理解させる勇気が出せないのだと思うとますます悲しかったのです。私は寂寞でした。どこからも切り離されて世の中にたった一人住んでいるような気のした事もよくありました。 青空文庫 Kindle版 p.273

私の観察はむしろ簡単でしかも直線的でした。Kは正しく失恋のために死んだものとすぐ極めてしまったのです。しかし段々落ち付いた気分で、同じ現象に向ってみると、そう容易くは解決が着かないように思われて来ました。現実と理想の衝突、―― それでもまだ不充分でした。私はしまいにKが私のようにたった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決したのではなかろうかと疑い出しました。そうしてまた慄としたのです。私もKの歩いた路を、Kと同じように辿っているのだという予覚が、折々風のように私の胸を横過り始めたからです。青空文庫 Kindle版 p.273

私は力の及ぶかぎり懇切に看護をしてやりました。これは病人自身のためでもありますし、また愛する妻のためでもありましたが、もっと大きな意味からいうと、ついに人間のためでした。 青空文庫 Kindle版 p.274

世間と切り離された私が、始めて自分から手を出して、幾分でも善い事をしたという自覚を得たのはこの時でした。私は罪滅しとでも名づけなければならない、一種の気分に支配されていたのです。
母は死にました。私と妻はたった二人ぎりになりました。妻は私に向って、これから世の中で頼りにするものは一人しかなくなったといいました。自分自身さえ頼りにする事のできない私は、妻の顔を見て思わず涙ぐみました。そうして妻を不幸な女だと思いました。また不幸な女だと口へ出してもいいました。妻はなぜだと聞きます。妻には私の意味が解らないのです。私もそれを説明してやる事ができないのです。妻は泣きました。私が不断からひねくれた考えで彼女を観察しているために、そんな事もいうようになるのだと恨みました。 青空文庫 Kindle版 p.274

私はただ人間の罪というものを深く感じたのです。その感じが私をKの墓へ毎月行かせます。その感じが私に妻の母の看護をさせます。そうしてその感じが妻に優しくしてやれと私に命じます。私はその感じのために、知らない路傍の人から鞭うたれたいとまで思った事もあります、こうした階段を段々経過して行くうちに、人に鞭うたれるよりも、自分で自分を鞭うつべきだという気になります。自分で自分を鞭うつよりも、自分で自分を殺すべきだという考えが起ります。私は仕方がないから、死んだ気で生きて行こうと決心しました。 青空文庫 Kindle版 p.275-276

私と妻とは決して不幸ではありません、幸福でした。しかし私のもっている一点、私に取っては容易ならんこの一点が、妻には常に暗黒に見えたらしいのです。それを思うと、私は妻に対して非常に気の毒な気がします。 青空文庫 Kindle版 p.276

「死んだつもりで生きて行こうと決心した私の心は、時々外界の刺戟で躍り上がりました。しかし私がどの方面かへ切って出ようと思い立つや否や、恐ろしい力がどこからか出て来て、私の心をぐいと握り締めて少しも動けないようにするのです。そうしてその力が私にお前は何をする資格もない男だと抑え付けるようにいって聞かせます。すると私はその一言で直ぐたりと萎れてしまいます。しばらくしてまた立ち上がろうとすると、また締め付けられます。私は歯を食いしばって、何で他の邪魔をするのかと怒鳴り付けます。不可思議な力は冷やかな声で笑います。自分でよく知っているくせにといいます。私はまたぐたりとなります。
波瀾も曲折もない単調な生活を続けて来た私の内面には、常にこうした苦しい戦争があったものと思って下さい。 青空文庫 Kindle版 p.276

私がこの牢屋の中に凝としている事がどうしてもできなくなった時、またその牢屋をどうしても突き破る事ができなくなった時、必竟私にとって一番楽な努力で遂行できるものは自殺より外にないと私は感ずるようになったのです。 青空文庫 Kindle版 p.276-277

いつも私の心を握り締めに来るその不可思議な恐ろしい力は、私の活動をあらゆる方面で食い留めながら、死の道だけを自由に私のために開けておくのです。 青空文庫 Kindle版 p.277

私の後ろにはいつでも黒い影が括ッ付いていました。私は妻のために、命を引きずって世の中を歩いていたようなものです。あなたが卒業して国へ帰る時も同じ事でした。 青空文庫 Kindle版 p.278

夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました。私は明白さまに妻にそういいました。妻は笑って取り合いませんでしたが、何を思ったものか、突然私に、では殉死でもしたらよかろうと調戯いました。 青空文庫 Kindle版 p.278

妻の笑談を聞いて始めてそれを思い出した時、私は妻に向ってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと答えました。私の答えも無論笑談に過ぎなかったのですが、私はその時何だか古い不要な言葉に新しい意義を盛り得たような心持がしたのです。 青空文庫 Kindle版 p.278

私を生んだ私の過去は、人間の経験の一部分として、私より外に誰も語り得るものはないのですから、それを偽りなく書き残して置く私の努力は、人間を知る上において、あなたにとっても、外の人にとっても、徒労ではなかろうと思います。 青空文庫 Kindle版 p.280

私の努力も単にあなたに対する約束を果たすためばかりではありません。半ば以上は自分自身の要求に動かされた結果なのです。
しかし私は今その要求を果たしました。もう何にもする事はありません。この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょう。 青空文庫 Kindle版 p.280-281

私は私の過去を善悪ともに他の参考に供するつもりです。しかし妻だけはたった一人の例外だと承知して下さい。私は妻には何にも知らせたくないのです。妻が己れの過去に対してもつ記憶を、なるべく純白に保存しておいてやりたいのが私の唯一の希望なのですから、私が死んだ後でも、妻が生きている以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、すべてを腹の中にしまっておいて下さい。 青空文庫 Kindle版 p.281

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