『吾輩は猫である』を読み解く

 明治末期には自然主義文学が主流となっていました。これに対して漱石は余裕派と呼ばれました。
 『吾輩は猫である』の中にはユーモアが散りばめられています。しかし、ユーモア以上に、日本文明の崩壊を危惧する漱石の気持ちが伝わってきます。

「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」

 「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」
 「猫」が登場し、苦沙弥先生の家に住みつきます。
 「猫」は、教養のない大きな黒猫と出会います。
 「猫」は人間の観察を始めます。
 「猫」の主人苦沙弥先生の家での様子が描かれています。苦沙弥先生は、家に帰るとほとんど書斎に引きこもっています。これを「猫」が称して「牡蠣(かき)的」な人間と言っています。 美学者の迷亭が来て、苦沙弥先生に噓をついてからかいます。

いくら人間だって、そういつまでも栄える事もあるまい。

「青空文庫」kindle版 p.8

名前のない猫が、人間の横暴な行動を批判し、人間界に警鐘を鳴らしています。

同盟敬遠主義の的になっている奴だ。

「青空文庫」kindle版 p.13

猫が知り合った教養のない乱暴猫を「同盟敬遠主義の的になっている奴だ。」と評しています。おもしろい表現です。

元来黒は自慢をする丈にどこか足りないところがあって、・・・

「青空文庫」kindle版 p.14

黒とは乱暴猫の名です。本人は普通に話しているつもりでも、たびたび自慢話を繰り返す人がいます。つまらない人だと思われていることが分からない寂しい人です。

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「猫」の人間観察、人間批判、人間評価

 「猫」の人間観察、人間批判、人間評価が始まります。
 水島寒月が登場
 美貌家の三毛子という猫が登場
 「猫」が食べ残しの餅を食べて大失態をやらかした後の三毛子との会話や、黒との会話が面白い
 また迷亭がやって来ます。水島寒月も来て、三者それぞれが不思議な体験談を披露します。 三毛子が死んでしまってから、「猫」は苦沙弥先生と同じように出不精な猫になってしまいます。

人間の眼はただ 向上とか何とかいって、 空ばかり見ているものだから、吾輩の性質は無論相貌の末を識別する事すら到底出来ぬのは気の毒だ。 

「青空文庫」kindle版 p.22

足元がおぼつかず、現状を理解することができていないのに、先に進もうとする姿勢を批判しています。

猫の事ならやはり猫でなくては分らぬ。 

「青空文庫」kindle版 P.22

猫の言葉を尊重したいものです。理解しようとする気持ちがあればまだいいのですが、感情が先行した解釈は困りものです。いくら理解しようと努力しても、他人の気持ちの多くのことは分かりません。自分自身のことだって100パーセントは分からないのですから。

・・・牡蠣的主人・・・ 

「青空文庫」kindle版 p.24

猫が主人の苦沙弥先生を指して「牡蠣的主人」と言っています。この主人のホームグラウンドは自宅の書斎です。外出を好まず、書斎に張り付いている牡蠣的主人は、現代人にも通ずるものがあります。

人間は利己主義から割り出した公平という念は猫より優っているかも知れぬが、 智慧はかえって猫より劣っているようだ。

「青空文庫」kindle版 p.27

子供たちが壺の中に入っている砂糖を代わる代わる自分の皿に入れて、とうとう壺の中が空になってしまいます。その場に父(苦沙弥先生)が来て、元のように砂糖を全部壺に戻してしまいます。子供たちは砂糖をなめそこなってしまいました。この光景を猫が評した場面です。「利己主義から割り出した公平という念」とはずいぶん面白い表現です。

主人のように裏表のある人間は日記でも書いて世間に出されない自己の面目を暗室内に発揮する必要があるかも知れないが、我等猫属に至ると行住坐臥、行屎送尿ことごとく真正の日記であるから、別段そんな面倒な 手数をして、己れの真面目を保存するには及ばぬと思う。日記をつけるひまがあるなら椽側に寝ているまでの事さ。

「青空文庫」kindle版 p.30

漱石によれば、世間に出されない自己の面目を自己の中に留めおくのが日記です。猫から観ると人間の世界は窮屈で、漱石がよく言う「神経衰弱」になるのは当たり前ということになります。

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実業家の金田の婦人が探偵を雇う

 実業家の金田の婦人が水島寒月の素性を探るために探偵を雇います。金田令嬢と水島寒月との間に何かあるようです。金田婦人は、しきりに水島寒月の社会的身分を気にします。
 苦沙弥先生と「鼻子」との舌戦があります。
 この婦人は派手な鍵鼻を持っており、苦沙弥先生はこの婦人を鼻子と呼びます。
 鼻子は苦沙弥先生をどうにかしていじめることを考えます。

なるほどそれでジャムの損害を償おうという趣向ですな。

「青空文庫」kindle版 p.86

胃弱の苦沙弥先生はジャムをなめるのが大好きです。大根おろしが胃弱の薬になると聞いて、「ジャムの損害」の埋め合わせに、やたらと大根おろしをなめています。「ジャムの損害を償う」というのも面白い表現です。

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金田の策略

 「猫」は金田邸に忍び込みます。
 金田が鈴木藤十郎を探偵として苦沙弥先生宅に送り込むことを策略しました。「猫」はその話を聞いて家に帰ります。 鈴木藤十郎がやって来ました。かつて苦沙弥先生と同宿していた人間で、実業家です。水島寒月に博士の学位を取るよう勧めることを苦沙弥先生に話します。そこへ迷亭がやってきて話をゴチャゴチャにしてしまいます。

金を作るにも三角術を使わなくちゃいけないと云うのさ――義理をかく、人情をかく、恥をかく これで三角になるそうだ面白いじゃないか。

「青空文庫」kindle版 p.150

苦沙弥先生が嫌っている金田からきいた話として、実業家の鈴木藤十郎が苦沙弥先生に話したことです。苦沙弥先生は実業家が大嫌いです。漱石が武士道をどう思っていたかは別として、武士道の反対という感じの話です。急速に西洋化が進む社会への漱石の反感が伺えます。新渡戸稲造は漱石の「こころ」に共感していました。

元来この主人はぶっ切ら棒の、 頑固光沢消しを旨として製造された男であるが、さればと云って冷酷不人情な文明の産物とは自からその撰を異にしている。

「青空文庫」kindle版 p.153

苦沙弥先生がどういう人かよくわかります。それにしても、ここでも「冷酷不人情な文明の産物」などと言って、西洋文明に苦言を呈しています。漱石は、日本の文化が急速に駆逐されていくことに危機感を抱いていました。

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苦沙弥先生宅に泥棒が入る

 迷亭と鈴木藤十郎が帰り、静かさが戻ります。夜中に泥棒が入り、皆が熟睡していて枕元にあるものを盗まれてしまいました。
 翌日、苦沙弥先生と妻が「ああだこうだ」と言って盗難届を書いていると、実業家の走りの多々良三平が現れ、鈴木藤十郎のことを聴きます。盗まれた山芋をくれたのはこの多々良三平です。
「猫」は心変わりして鼠を獲ることにしましたが、捕獲に失敗したばかりでなく、鼠からの攻撃にあってしまいました。

それだから千金の春宵を心も空に満天下の雌猫雄猫が狂い廻るのを煩悩の迷のと軽蔑する念は毛頭ないのであるが、いかんせん誘われてもそんな心が出ないから仕方がない。吾輩目下の状態はただ休養を欲するのみである。

「青空文庫」kindle版 p.169

そのような状態になる猫もいるのかもしれません。漱石自身の神経衰弱の状態を言っているのでしょうか。

世に住めば事を知る、事を知るは嬉しいが日に日に危険が多くて、日に日に油断がならなくなる。 狡猾になるのも卑劣になるのも表裏二枚合せの護身服を着けるのも皆事を知るの結果であって、事を知るのは年を取るの罪である。老人に碌なものがいないのはこの理だな・・・

「青空文庫」kindle版 p.190

「老人に碌なものがいない」とはひどい表現です。今ではとてもそんなことは言えませんし、そうとも思いませんが、前半の部分は考えさせられます。歳を重ね、知れば知るほど人間は汚くなるとは、厳しい言葉です。

とかく物象にのみ使役せらるる俗人は、 五感の刺激以外に何等の活動もないので、 他を評価するのでも形骸以外に渉らんのは厄介である。 何でも尻でも端折って、汗でも出さないと働らいていないように考えている。

「青空文庫」kindle版 p.197

これは現代ではだいぶ変わっています。五感の刺激だけで生きるのがいちばん楽な生き方ではありますが。

陽春白雪の詩には和するもの少なしの喩も古い昔からある事だ。形体以外の活動を見る能わざる者に向って己霊の光輝を見よと強ゆるは、坊主に髪を結えと逼るがごとく、 鮪に演説をして見ろと云うがごとく、電鉄に脱線を要求するがごとく、主人に辞職を勧告するごとく、三平に金の事を考えるなと云うがごときものである。 必竟無理な注文に過ぎん。しかしながら猫といえども社会的動物である。 社会的動物である以上はいかに高く自ら標置するとも、 或る程度までは社会と調和して行かねばならん。

「青空文庫」kindle版 p.198

優れた人の行動や言葉を理解する人は少ない。多数の凡人に対して、表に現れているもの以外のものを見ろと要求しても無理だと言っています。それにしても面白い喩えです。

法のつかない者は起らないと考えたくなるものである。

「青空文庫」kindle版 p.202

「猫」が初めてネズミ捕りに挑戦し、どこからネズミが出てくるか、マークすべき場所を決めかねている場面です。目的を達成するための方法が分からい者は、悪い方に行かないと考えてしまいます。考えるというよりは「どうにかなるだろう」という希望で行動してしまいます。

心配せんのは、心配する価値がないからではない。いくら心配したって法が付かんからである。

「青空文庫」kindle版 p.202

確かにそういうことはあります。「心配する価値があるもの」かどうかが問題です。

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迷亭、水島寒月、越智東風「駄弁家の寄合」

 例によって「猫」が人間の行動を批評し、見下しています。 例によって迷亭が来ていろいろと話します。そこへ水島寒月がやって来ます。失恋の話なども出ます。越智東風も来ました。「駄弁家の寄合」はなかなか終わりません。

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「猫」運動を開始

 「吾輩は近頃運動を始めた。」で始まります。「猫」の運動は、「蟷螂(かまきり)狩り」と「蝉取り」と「松滑り」と「垣巡り」です。銭湯の観察にも出かけます。「猫」が言うには、「人間の歴史は・・・単に衣服の歴史であると申したいくらいだ。」そうです。

ブライトンの海水に飛込めば四百四病即席全快と大袈裟な広告を出したのは遅い遅いと笑ってもよろしい。

「青空文庫」kindle版 p.245

猫に言わせれば、人間はのろまなので、「近頃に至って漸々運動の功能を吹聴したり、 海水浴の利益を喋々して大発明のように考えるのである。」だそうです。

どうも二十世紀の今日運動せんのはいかにも貧民のようで人聞きがわるい。運動をせんと、運動せんのではない。運動が出来んのである、運動をする時間がないのである、余裕がないのだと鑑定される。昔は運動したものが折助と笑われたごとく、今では運動をせぬ者が下等と見做されている。吾人の評価は時と場合に応じ吾輩の眼玉のごとく変化する。吾輩の眼玉はただ小さくなったり大きくなったりするばかりだが、人間の品隲とくると真逆かさまにひっくり返る。ひっくり返っても差し支えはない。物には両面がある、 両端がある。

「青空文庫」kindle版 p.246

急速に変わる世の中を写し出しています。「物には両面がある、 両端がある。」確かにそのとおり。
【 折助(おりすけ)小者)】 【 品隲(ひんしつ)品評)】

油蟬はしこくて行かん。みんみんは横風で困る。ただ 取って 面白いのはおしいつくつくである。

「青空文庫」kindle版 p.250

ツクツクボーシのことを漱石はオシイツクツクと呼んでいます。
ツクツクボーシ ⇒ ボーシツクツク ⇒ オシイツクツク 物には両端があるのですから、オシイツクツクと聴こえる人もいるのでしょう。

人間世界を通じて行われる愛の法則の第一条にはこうあるそうだ。――自己の利益になる間は、すべからく人を愛すべし。

「青空文庫」kindle版 p.258

それなりに可愛がられていた猫にノミがついて、じゃま者扱いされた後の猫の言葉です。人間は愚かなものであるそうです。

できない? 出来ないのではない、西洋人がやらないから、自分もやらないのだろう。

「青空文庫」kindle版 263

これは、猫がナイトドレスが気に入らないようで、「裸であるいてみろ」に続く猫の言葉です。西洋人の真似をして、日本人がえらい者と思ってはいけないと言っています。

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苦沙弥先生への中学校生徒の迷惑行為

 落雲館という私立の中学校の生徒が苦沙弥先生にからかいます。学生が、大きな擂粉木(すりこぎ)でダムダム弾を苦沙弥先生の敷地に打ち込み、生徒が球拾いに勝手に敷地に入って来ます。(野球のこと)これは、苦沙弥先生が大嫌いな金田の策略でした。苦沙弥先生は学校の先生を呼びつけて話し、断ってから球拾いすることになりましたが、生徒が1日に何度も断りに来て、うるさくてしょうがない。 実業家の鈴木藤十郎、医者の甘木先生、哲学者先生(八木独仙)が苦沙弥先生に助言します。

丸いものはごろごろどこへでも苦なしに行けるが四角なものはころがるに骨が折れるばかりじゃない、転がるたびに角がすれて痛いものだ。どうせ自分一人の世の中じゃなし、そう自分の思うように人はならないさ。

「青空文庫」kindle版 p.319

隣の学校の学生からの迷惑行為に苦沙弥先生は悩まされています。実業家の鈴木藤十郎にそのことを話している中での苦沙弥先生の言葉です。今も同じようなものでしょう。

医者の薬でも飲んで肝癪の源に賄賂でも使って慰撫するよりほかに道はない。

「青空文庫」kindle版 p.320

苦沙弥先生「かくのごとく年が年中肝癪を起しつづけはちと変だと気が付い た。」結果として、医者に行くことにしました。とにかく漱石の表現は面白い。

西洋の文明は積極的、進取的かも知れないがつまり不満足で一生をくらす人の作った文明さ。日本の文明は自分以外の状態を変化させて満足を求めるのじゃない。西洋と大に違うところは、根本的に周囲の境遇は動かすべからざるものと云う一大仮定の下に発達しているのだ。

「青空文庫」kindle版 p.327

猫が哲学者先生と名付けた珍客の言葉です。このことについては、今は日本(世界の大部分)は完全に西洋と同じになっています。不満足の連続になっています。自分自身の鍛錬を疎かにしてはいけないということです。

君のような貧乏人でしかもたった一人で積極的に喧嘩をしようと云うのがそもそも君の不平の種さ。

「青空文庫」kindle版 p.328

「西洋人風の積極主義ばかりがいいと思うのは少々誤っている。」相手に働きかけるだけでなく、自分自身のことも考えなければならないと何度も言っています。

鈴木の藤さんは金と衆とに従えと主人に教えたのである。甘木先生は催眠術で神経を沈めろと助言したのである。最後の珍客は消極的の修養で安心を得ろと説法したのである。

「青空文庫」kindle版 p.328

ある日、苦沙弥先生に3人の来客がありました。苦沙弥先生の悩みに3人が助言を与えています。鈴木藤十郎は実業家、甘木先生は医者、珍客は哲学者先生です。苦沙弥先生は、どうやら哲学者先生の助言に従ったようです。

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哲学者先生の助言と喧嘩の結末

 哲学者先生の助言をきいて、苦沙弥先生は落雲館との喧嘩を消極的に治めます。
 苦沙弥先生は、鏡に痘痕(あばた)面を映し出してしきりに考え込みます。鏡が「自慢の消毒器」になったようです。 迷亭が静岡の伯父を連れてやってきます。白髪のチョン髷に鉄扇という出で立ちです。迷亭は時候おくれの人と言っています。

ややあって主人は「なるほどきたない顔だ」と独り言を云った。自己の醜を自白するのはなかなか見上げたものだ。様子から云うとたしかに気違の所作だが言うことは真理である。これがもう一歩進むと、己れの醜悪な事が怖くなる。人間は吾身が怖ろしい悪党であると云う事実を徹骨徹髄に感じた者でないと苦労人とは云えない。苦労人でないととうてい解脱は出来ない。

「青空文庫」kindle版 p335

「吾身が怖ろしい悪党であると云う事実を徹骨徹髄に感じた者」とは?この部分は何度読んでも分かりません。解脱とは渇愛の連続から逃れることだと思っていますが、どうもつながりません。

「このくらい離れるとそんなでもない。やはり近過ぎるといかん。―― 顔ばかりじゃない何でもそんなものだ」と悟ったようなことを云う。

「青空文庫」kindle版 p337

苦沙弥先生は顔のあばたを気にしています。顔から鏡を離して言った言葉です。

人のお蔭で自己が分るくらいなら、自分の代理に牛肉を喰わして、堅いか柔かいか判断の出来る訳だ。 朝に法を聴き、 夕に道を聴き、梧前灯下に書巻を手にするのは皆この自証を挑撥するの方便の具に過ぎぬ。

「青空文庫」kindle版 p337

「自己を措(お)いて他に研究すべき事項は誰人にも見出し得ぬ訳だ。」自分があって、そのほかは自分でないもの。自分でないものを自分がどう捉えたかを研究すべきということでしょうか。

自分に愛想の尽きかけた時、自我の萎縮した折は鏡を見るほど薬になる事はない。 姸醜瞭然だ。こんな顔でよくまあ人で候と反りかえって今日まで暮らされたものだと気がつくにきまっている。そこへ気がついた時が人間の生涯中もっともありがたい期節である。自分で自分の馬鹿を承知しているほど 尊とく見える事はない。

「青空文庫」kindle版 p338

苦沙弥先生が自分の顔を鏡に映し出して考えています。自分をこの程度の者と承知した人は、他から見て謙虚な人と感じられます。
【姸醜瞭然(けんしゅうりょうぜん)美しいことこ醜いこと】

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・八木独仙の話
・生徒の艶書

 「猫」は朝から苦沙弥先生夫婦と下女の「御三」の悪口ばかり言っています。三人の子供たちの観察をしています。苦沙弥先生は、先日の泥棒事件の関係で警察に出頭します。その間に苦沙弥先生の姪の雪江がやってきます。雪江が八木独仙の演説の話をします。地蔵にどいてもらう話です。金田の令嬢に誰かが艶書を送った話もします。苦沙弥先生が帰宅すると学校の生徒がやって来ます。艶書を送った本人です。退学になることを心配しています。苦沙弥先生は相手にしません。

しかし今の世の働きのあると云う人を拝見すると、噓をついて人を釣る事と、先へ廻って馬の眼玉を抜く事と、虚勢を張って人をおどかす事と、 鎌をかけて人を陥れる事よりほかに何も知らないようだ。

「青空文庫」kindle版 p.390

猫の言葉です。今の世にもこういう人はいます。漱石は、自己の利益のためなら何でもする人が持ち上げられる世の中を徹底的に嫌っていたようです。
【馬の目玉を抜く:素早くことを済ませること】

人間は魂胆があればあるほど、その魂胆が祟って不幸の源をなすので・・・

「青空文庫」kindle版 p403

新しい道を造るのに、地蔵さまがちょうど邪魔になっていて動かさなければならない。いろいろな人が策を凝らして動かすことを試みたが、地蔵さまは動かない。その時、町内でバカ扱いされている「馬鹿竹」という者が地蔵さまに話しかけます。「地蔵様、町内のものが、あなたに動いてくれと云うから動いてやんなさいと云ったら、地蔵様はたちまちそうか、そんなら早くそう云えばいいのに、とのこのこ動き出したそうです」という話を受けての言葉です。地蔵さまが動いてくれたのは、魂胆によるものではなく、馬鹿竹の素直な言葉(心)でした。

人間にせよ、動物にせよ、己 を知るのは生涯の大事である。 己を知る事が出来さえすれば人間も人間として猫より尊敬を受けてよろしい。

「青空文庫」kindle版 p421

ゴーギャンの作品に「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」というものがあります。外からの刺激、形のあるものだけに目を向けず、「私は何者か」ということを考え、自分の心の中を確認することは大切です。

冷淡は人間の本来の性質であって、その性質をかくそうと力めないのは正直な人である。

「青空文庫」kindle版 p.423

人の生死にかかわるようなことは別として、他人が困っているのを笑ったりすることがあります。これは、人間の本来の性質だと猫は言っています。そして、冷淡であることを隠そうとしない人は正直な人間だと言っています。他人のために涙するのは人間の自然な傾向ではなく、交際のためのものだとも言っています。確かに他人の不幸を笑うことが人間にはあると思います。しかし、同じ不幸が身内に起こっている場合には何とかしようとします。親族愛とでもいうのでしょうか。それも確かに存在します。

武右衛門君はただに我儘なるのみならず、他人は己れに向って必ず親切でなくてはならんと云う、人間を買い被った仮定から出立している。笑われるなどとは思も寄らなかったろう。

「青空文庫」kindle版 p425

武右衛門君(苦沙弥先生の隣の学校の学生)が、自分の起こした問題から退学になることを心配して苦沙弥先生を訪れ、なんとかしてほしいとお願いしている場面です。一度親切にすると、二度も三度もお願いされることがあります。人間の甘さを戒めるための言葉でしょうか。

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・迷亭、独仙、寒月、東風、苦沙弥先生の熱心な話
・「猫」ビールを飲む

 床の間の前で迷亭と独仙が囲碁をやっています。座敷には寒月と東風と苦沙弥先生が座っています。囲碁の話、寒月のヴァイオリンのことなど、話が尽きません。寒月は、国に帰ったときに結婚したことを皆に話します。探偵、自殺、結婚不可能、離婚、人間の個性の自由などについて熱心に話します。多々良三平がビールをもって現れ、金田の令嬢と結婚することになったことを話します。皆が帰った後、「猫」は飲み残しのビールを飲んで、とんでもないことになってしまいます。

「不用意の際に人の懐中を抜くのがスリで、不用意の際に人の胸中を釣るのが探偵だ。知らぬ間に雨戸をはずして人の所有品を偸むのが泥棒で、知らぬ間に口を滑らして人の心を読むのが探偵だ。ダンビラを畳の上へ刺して無理に人の金銭を着服するのが強盗で、おどし文句をいやに並べて人の意志を強うるのが探偵だ。だから探偵と云う奴はスリ、泥棒、強盗の一族でとうてい人の風上に置けるものではない。そんな奴の云う事を聞くと癖になる。決して負けるな。

「青空文庫」kindle版 p.479

苦沙弥先生が水島寒月に忠告しています。漱石は、世の中にはびこる探偵というものが大嫌いだったようです。スリ、泥棒、強盗と同族だと言っています。自分の心の中を探られるのはいい気持ちではありません。探偵的な人間が嫌われるのは当然です。漱石はたびたび「探偵」を登場させています。

人間はただ眼前の習慣に迷わされて、根本の原理を忘れるものだから気をつけないと駄目だと云う事さ。

「青空文庫」kindle版 p.491

苦沙弥先生と迷亭君との会話です。漱石の小説では珍しいのですがスペインが登場します。スペインのコルドバの昔の習慣の話を引き合いに出し、習慣が根本の原理を忘れさせてしまうので注意しろと言っています。習慣には落とし穴があるということで、臨機応変に対応するという心構えは大切です。

「結婚の不可能。訳はこうさ。 前申通り今の世は個性中心の世である。一家を主人が代表し、一郡を代官が代表し、一国を領主が代表した時分には、代表者以外の人間には人格はまるでなかった。あっても認められなかった。・・・・・個人が平等に強くなったから、個人が平等に弱くなった訳になる。・・・・・かくのごとく人間が自業自得で苦しんで、その苦し紛れに案出した第一の方案は親子別居の制さ。日本でも山の中へ這入って見給え。一家一門ことごとく一軒のうちにごろごろしている。主張すべき個性もなく、あっても主張しないから、あれで済むのだが文明の民はたとい親子の間でもお互に我儘を張れるだけ張らなければ損になるから勢い両者の安全を保持するためには別居しなければならない。・・・・・たまたま親子同居するものがあっても、息子がおやじから利息のつく金を借りたり、他人のように下宿料を払ったりする。親が息子の個性を認めてこれに尊敬を払えばこそ、こんな美風が成立するのだ。・・・・・昔しなら文句はないさ、異体同心とか云って、 目には夫婦二人に見えるが、 内実は一人前なんだからね。・・・・・賢夫人になればなるほど個性は凄いほど発達する。発達すればするほど夫と合わなくなる。合わなければ自然の勢夫と衝突する。・・・・・水と油のように夫婦の間には截然たるしきりがあって、それも落ちついて、しきりが水平線を保っていればまだしもだが、水と油が双方から働らきかけるのだから家のなかは大地震のように上がったりする。・・・・・ここにおいて夫婦雑居はお互の損だと云う事が次第に人間に分ってくる。」

「青空文庫」kindle版 p.494

結婚不可能な時代にはなっていませんが、結婚は選択肢の一つという感じになっていますし、簡単離婚可能な時代になりました。

呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする。

「青空文庫」kindle版 p.450

いろいろな人物が登場し、皆が好きなように話しますが、皆悲しみを抱えている。心の内と現実社会との差、その差を永遠に縮めようとする行為には虚しさがあります。差が縮まったとしても、永遠に二つが一致することはありません。

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 「太平は死なば得られぬ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。」
最後まで猫には名前がありませんでした。

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