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⑦『彼岸過迄』「松本の話」を読み解く

 松本が敬太郎に話します。松本は、市蔵と千代子の衝突の話を双方から聞いていました。
 自分の中には周りの人が話さない秘密が隠されていると市蔵は感じています。市蔵の苦しみは極限に達しています。

一 市蔵と千代子のこと

一 松本が、市蔵という人間のこと、市蔵と千代子の関係について敬太郎に話し始めます。

ところが不幸にも二人はある意味で密接に引きつけられている。しかもその引きつけられ方がまた傍のものにどうする権威もない宿命の力で支配されているんだから恐ろしい。取り澄ました警句を用いると、彼らは離れるために合い、合うために離れると云った風の気の毒な一対を形づくっている。

青空文庫 Kindle版 p.288

市蔵と千代子の関係は、気の毒な運命により操られているようです。
自分たちでどうにかなるものではなく、ましては他人の力で修正できるようなものではありません。

彼らが夫婦になると、不幸を醸す目的で夫婦になったと同様の結果に陥いるし、また夫婦にならないと不幸を続ける精神で夫婦にならないのと択ぶところのない不満足を感ずるのである。

青空文庫 Kindle版 p.288

「門」の主人公の宗助と同じような状況でしょうか。限りなく気の毒な二人の運命です。

ことに須永の姉からは、二人の身分について今まで頼まれたり相談を受けたりした例は何度もある。けれども天の手際で旨く行かないものを、どうして僕の力で纏める事ができよう。つまり姉は無理な夢を自分一人で見ているのである。

青空文庫 Kindle版 p.289

松本には二人の運命が見えているようです。須永の母の強い希望は叶わない夢で終わるのでしょうか。

市蔵という男は世の中と接触するたびに内へとぐろを捲き込む性質である。だから一つ刺戟を受けると、その刺戟がそれからそれへと廻転して、だんだん深く細かく心の奥に喰い込んで行く。そうしてどこまで喰い込んで行っても際限を知らない同じ作用が連続して、彼を苦しめる。

青空文庫 Kindle版 p.289-290

松本と市蔵は、外から見ると同じような人間と見做されているようですが、松本はそれを否定しています。

この不幸を転じて幸とするには、内へ内へと向く彼の命の方向を逆にして、外へとぐろを捲き出させるよりほかに仕方がない。外にある物を頭へ運び込むために眼を使う代りに、頭で外にある物を眺める心持で眼を使うようにしなければならない。・・・・・軽薄に浮かれ得るよりほかに彼を救う途は天下に一つもない事を、彼は、僕が彼に忠告する前に、すでに承知していた。けれども実行はいまだにできないでもがいている。

青空文庫 Kindle版 p.290

市蔵の心に何か変化があったようです。外へ目を向けることを考えているようです。何を実行しようとしているのでしょうか。

二 松本が市蔵に与えた影響

二 市蔵に影響を与えたのは松本です。それを松本自身が認めています。しかも市蔵にとっては悪い影響であったと思っています。

生れついての浮気ものに過ぎない。僕の心は絶えず外に向って流れている。だから外部の刺戟しだいでどうにでもなる。

青空文庫 Kindle版 p.291

松本は自己を評してこのように言っています。市蔵は正にこの反対の人なのです。

市蔵は在来の社会を教育するために生れた男で、僕は通俗な世間から教育されに出た人間なのである。

青空文庫 Kindle版 p.291

彼は社会を考える 種に使うけれども、僕は社会の考えにこっちから乗り移って行くだけである。そこに彼の長所があり、かねて彼の不幸が潜んでいる。そこに僕の短所があり、また僕の幸福が宿っている。

青空文庫 Kindle版 p.291

社会をよく考える人には不幸が潜んでいるとは何とも悲しいことです。

つまり 僕は飽くまでも写真を実物の代表として眺め、彼は写真をただの写真として眺めていたのである。

青空文庫 Kindle版 p.293

ある時、市蔵が美しい女の写真を眺めていました。この写真を眺めていると苦痛を忘れ、自ずと愉快な気持ちになるというのです。松本がその女の名前を聞きましたが、市蔵は写真の下の名前を読んでいませんでした。

三 松本の驚き

三 市蔵が大学を卒業する二三か月前の話です。松本は市蔵の母から、千代子と結婚するよう市蔵に話すことをお願いされます。市蔵が松本のところに来ました。市蔵は、千代子を貰うとは決して言いません。
その後、松本は市蔵の言葉に驚かされます。

市蔵はしばらくして自分はなぜこう人に嫌われるんだろうと突然意外な述懐をした。

青空文庫 Kindle版 p.295

「じゃ誰が御前を嫌っているかい」「現にそういう叔父さんからして僕を嫌っているじゃありませんか」

青空文庫 Kindle版 p.295

松本は市蔵の言葉に驚かされます。

僕が彼に特有な一種の表情に支配されて話の進行を停止した時の態度を、全然彼に対する嫌悪の念から出たと受けているらしかった。

青空文庫 Kindle版 p.295

市蔵は、他人の態度や心の動きに敏感です。それが直ぐに市蔵の内面に食い込みます。

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四 市蔵の苦しみ

四 市蔵は自分の苦しみを松本に訴えます。

「どういうところが僻んでいるでしょう。判然聞かして下さい」

青空文庫 Kindle版 p.297

「あなたは不親切 だ」

青空文庫 Kindle版 p.297

僕は毎日毎夜考えました。余り考え過ぎて頭も身体も続かなくなるまで考えたのです。それでも分らないからあなたに聞いたのです。

青空文庫 Kindle版 p.297

僕は頰を伝わって流れる彼の涙を見た。幼少の時から馴染んで今日に及んだ 彼と僕との間に、こんな光景はいまだかつて一回も起らなかった事を僕は君に明言しておきたい。

青空文庫 Kindle版 p.298

なぜ自分は僻んでいるのか。市蔵は極限の苦しみの中にいます。

僕は僻んでいます。僕はあなたからそんな注意を受けないでも、よく知っています。僕はただどうしてこうなったかその訳が知りたいのです。いいえ母でも、田口の叔母でも、あなたでも、みんなよくその訳を知っているのです。ただ僕だけが知らないのです。ただ僕だけに知らせないのです。僕は世の中の人間の中であなたを一番信用しているから聞いたのです。あなたはそれを残酷に拒絶した。僕はこれから生涯の敵としてあなたを呪います」

青空文庫 Kindle版 p.298

いつも一人で苦しんでいる市蔵が、一人信用している松本に自分の苦しみを訴え、これといった返答がありませんでした。市蔵はどうなってしまうのでしょうか。

五 市蔵に隠された秘密

五 松本は、市蔵の生い立ちに隠された秘密を明かします。

彼のようにたった一人の秘密を、攫もうとしては恐れ、恐れてはまた攫もうとする青年は一層見惨に違あるまいと考えながら、腹の中で暗に同情の涙を彼のために濺いだ。

青空文庫 Kindle版 p.299

どんな秘密があるのか。松本は市蔵に何を話すのでしょうか。

実を云うと、市蔵の太陽は彼の生れた日からすでに曇っているのである。
僕は誰にでも明言して憚からない通り、いっさいの秘密はそれを開放した時始めて自然に復る落着を見る事ができるという主義を抱いているので、穏便とか現状維持とかいう言葉には一般の人ほど重きを置いていない。

青空文庫 Kindle版 p.299

市蔵の生い立ちに秘密が隠されているようです。松本は秘密を明かす決心をしたようです。

本当の母子よりも遥かに仲の好い継母と継子なのである。彼らは血を分けて始めて成立する通俗な親子関係を軽蔑しても差支ないくらい、情愛の糸で離れられないように、自然からしっかり括りつけられている。

青空文庫 Kindle版 p.300

僕はとうとう彼の恐れるものの正体を取り出して、彼の前に他意なく並べてやったのである。

青空文庫 Kindle版 p.300

市蔵の母は実母ではないことが松本の口から語られました。

六 市蔵の産みの母

六 市蔵は産みの母の消息などを松本に聞きます。分かったことは御弓という名前で、市蔵が生まれると間もなく死んでしまったということだけでした。

「・・・・・けれども御話を聞いてすべてが明白になったら、かえって安心して気が楽になりました。もう怖い事も不安な事もありません。その代り何だか急に心細くなりました。淋しいです。世の中にたった一人立っているような気がします」

青空文庫 Kindle版 p.302

母と自分とをつなぐ糸が半分途切れてしまったように感じたのでしょうか。

「御母さんが是非千代ちゃんを貰えというのも、やっぱり血統上の考えから、身縁のものを僕の嫁にしたいという意味なんでしょうね」「全くそこだ。ほかに何にもないんだ」
市蔵はそれでは貰おうとも云わなかった。僕もそれなら貰うかとも聞かなかった。

青空文庫 Kindle版p.304

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七 秘密を明かされた後の市蔵

七 松本が市蔵に秘密を明かしてから一カ月半ほど経ちました。松本は市蔵と会食をして様子を確かめます。

大丈夫かいと念を押した時、彼は急に情なそうな顔をして、人間の頭は思ったより堅固にできているもんですね、実は僕自身も怖くってたまらないんですが、不思議にまだ壊れません、この様子ならまだ当分は使えるでしょうと云った。冗談らしくもあり、また真面目らしくもあるこの言葉が、妙に憐れ深い感じを僕に与えた。

青空文庫 Kindle版 p.306

自分に隠された秘密からは解放されたのですが、今、そして今後のことは不安でたまらないようです。

八 市蔵の変化の兆し

八 若葉の時節が過ぎた頃、市蔵がふらりと松本の家にやって来ました。大学卒業の試験が昨日終わったばかりだと言います。旅に出ると言います。

「実はあの事件以来妙に頭を使うので、近頃では落ちついて書斎に坐っている事が困難になりましてね。どうしても旅行が必要なんですから、まあ試験を中途で已めなかったのが感心だぐらいに賞めて許して下さい」

青空文庫 Kindle版 p.307

卒業試験が終わったので旅行に行くのではないようです。市蔵はどのような道に進むのでしょうか。

「いいえ、ただ気の毒なんです。始めは淋しくって仕方がなかったのが、だんだんだんだん気の毒に変化して来たのです。実はここだけの話ですけれども、近頃では母の顔を朝夕見るのが苦痛なんです。

青空文庫 Kindle版 p.308

市蔵は、母の顔を見るたびに変な心持になるといいます。松本から隠された話を聞いたことにより、母に対する思いが変わったのでしょうか。それとも、自分の内面に食い込む苦しみを離れ、心が自分以外に向き始めたのでしょうか。

僕はただ自分に信念がなくって、わが心の事を他に尋ねて安心したいと願う彼の胸の裏を憐れに思った。上部はいかにも優しそうに見えて、実際は極めて意地の強くでき上った彼が、こんな弱い音を出すのは、ほとんど例のない事だったからである。

青空文庫 Kindle版 p.308

市蔵は、自分が旅に出たら、そのまま母と離れ離れになってしまうのではないかと松本に漏らします。明らかに市蔵は変わりました。

市蔵は僕の言葉を聞いて実際安心したらしく見えた。僕もやや安心した。けれども一方では、このくらい根のない慰藉の言葉が、明晰な頭脳を有った市蔵に、これほどの影響を与えたとすれば、それは 彼の神経がどこか調子を失なっているためではなかろうかという疑も起った。

青空文庫 Kindle版 p.309

松本は市蔵に慰藉の言葉をかけて安心させたのですが、本当に市蔵が安心したのであれば、市蔵の神経がおかしくなったのではないかと逆に心配になります。

九 市蔵の旅行と母の心配

九 松本は、市蔵に秘密を明かしたことにより、市蔵のことが気になります。
市蔵の母が市蔵が旅に出ることを心配し、松本の家にやって来ます。
松本は市蔵の母を慰めますが、心配でとうとう家まで送っていきました。松本は、市蔵に旅の先から便りを必ずおくるよう念を押します。

僕は姉の使う健康という言葉が、身体に関係のない精神上の意味を有っているに違ないと考えて、腹の中で一種の苦痛を感じた。

青空文庫 Kindle版 p.311

市蔵に秘密を明かしたことを松本は市蔵の母には言っていません。もちろん、市蔵も言っていません。市蔵の母も当然に市蔵の変化を感じています。松本は、もしも精神上の悪い変化であれば、自分が責任をとらなければならないと自覚しています。

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十 市蔵の旅行先からの便り

十 市蔵は、こまめに便りを送ります。

端書に満足した僕は、彼の封筒入の書翰に接し出した時さらに眉を開いた。というのは、僕の恐れを抱いていた彼の手が、陰欝な色に巻紙を染めた痕迹が、そのどこにも見出せなかったからである。

青空文庫 Kindle版 p.313

旅行は市蔵によい影響を与えているかもしれません。 書翰(しょかん)

彼の気分を変化するに与かって効力のあったものは京都の空気だの宇治の水だのいろいろある中に、上方地方の人の使う言葉が、 東京に育った彼に取っては最も興味の多い刺戟になったらしい。何遍もあの辺を通過した経験のあるものから云うと馬鹿げているが、市蔵の当時の神経にはああ云う滑らかで静かな調子が、鎮経剤以上に優しい影響を与え得たのではなかろうかと思う。

青空文庫 Kindle版 p.313

市蔵は、外からの刺激を心地よく受け入れているようです。良い方向に向かってくれることを祈りたくなります

「・・・・・友人は僕を顧みて野趣があると笑いました。僕も笑いました。ただ笑っただけではありません。百年も昔の人に生れたような暢気した心持がしました 僕はこういう心持を御土産に東京へ持って帰りたいと思います」

青空文庫 Kindle版 p.315

市蔵は大阪の友だちを訪ね、旅行の案内をしてもらいました。市蔵に良い影響を与えたようです。

十一 便りに見える市蔵の変化

十一 市蔵からの便りに、松本は今までと明らかに違う市蔵の姿を窺います。

そう云えば、遺伝だか何だか、叔父さんにも貧乏な割にはと云っては失礼ですが、どこかに贅沢なところがあるようですし、あんな内気な母にも、妙に陽気な事の好きな方面が昔から見えていました。ただ僕だけは、―― こういうとまたあの問題を持ち出したなと早合点なさるかも知れませんが、僕はもうあの事について叔父さんの心配なさるほど屈托していないつもりですから安心して下さい。ただ僕だけはと断るのはけっして苦い意味で云うのではありません。僕はこの点において、叔父さんとも母とも生れつき違っていると申したいのです。

青空文庫 Kindle版 p.316-317

便りに書いてある市蔵の行動から推し量ると、市蔵の言っていることは本当のようです。
母の血を継いでいないという無念が、「僕だけは」という言葉になるのでしょうか。

僕は実に天とか、人道とか、もしくは神仏とかに対して申し訳がないという、真正に宗教的な意味において恐れたのです。

青空文庫 Kindle版 p.317

市蔵は、ある富豪のでたらめな行動の話を聞いたことがあります。市蔵は彼を憎み、恐れます。それは、彼のむやみな金の使い方に恐れの心を抱いたのではなく、宗教的な意味において恐れたと言います。

静かな波の上を流れて行く涼み船を見送りながら、このくらいな程度の慰さみが人間としてちょうど手頃なんだろうと思いました。僕も叔父さんから注意されたように、だんだん浮気になって行きます。賞めて下さい。

青空文庫 Kindle版 p.317-318

市蔵は、外部からの刺激を素直に受け、あるいは受け流すことができる心境になってきたようです。

十二 新しい市蔵

十二 市蔵からまた松本に便りがありました。今度は、二階から見た海で遊ぶ男女のことや、客が芸者と遊んでいる姿が書いてあります。

しかしこれは旅行の御蔭で僕が改良した証拠なのです。僕は自由な空気と共に往来する事を始めて覚えたのです。こんなつまらない話を一々書く面倒を厭わなくなったのも、つまりは考えずに観るからではないでしょうか。考えずに観るのが、今の僕には一番薬だと思います。

青空文庫 Kindle版 p.320

旅は、新しい市蔵らしさを作り出したかもしれません。
千代子と市蔵の結婚という母の希望を叶えてあげられる人間に変化したのかもしれません。

わずかの旅行で、僕の神経だか性癖だかが直ったと云ったら、直り方があまり安っぽくって恥ずかしいくらいです。が、僕は今より十層倍も安っぽく母が僕を生んでくれた事を切望して已まないのです。

青空文庫 Kindle版 p.320

もう少し自分が気楽な人間であったら。でも、今よりひどい神経衰弱にはならず、気楽な人間にもならず、千代子とも今まで通りの関係が続くのかもしれません。

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