『草枕』を読み解く

 『草枕』は『坊ちゃん』の次に発表された漱石初期の作品です。

 非人情の旅をしている余が、那美という女に出会います。
 画工である余は、非人情の態度で画を描き、詩をうたおうとしています。
 出会った人はその場限りの人。画の中、詩の中の一場面という態度で旅をします。

 那美はうつくしい女です。そして余を度々驚かす女です。
夜中に外で低誦したり、余が一人で入っている湯壺に入ってきたりします。ちょっとミステリアスな女です。

 川に身を投げ、水に浮かぶ女性の姿を描いた画、ミレーのオフェリアを余は苦に思っていました。
 湯壺に一人入り、湯に同化してしまったような状況で、余はこの画にもうつくしさを認めます。

 那美は鏡の池に身を投げるかもしれないと余に言います。
 水に浮いている姿を画に描いてほしいとも言います。
 しかし余は、那美の表情にどこか物足りなさを感じています。
 余が那美に求める表情が表われ、那美の画を描くことができるのか・・・・・

※ 『草枕』には目次がありません。1 ~ 13の構成になっています。

山路を登りながら、こう考えた。・・・とかくに人の世は住みにくい。

1のあらすじ
 「山路を登りながら、こう考えた。」で始まる草枕は、漱石の名作の中の一つです。
 画工である余は非人情の旅をしています。山道を歩いていると雨が降り出しました。
 通りがかりの人から雨宿りができる場所を教えてもらい、その茶屋に向かいます。

山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。 青空文庫 Kindle版 p.2

冒頭のこの一文はあまりにも有名です。この小説の主人公は余です。

あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。青空文庫 Kindle版 p.2

芸術の本旨ここにあり。

世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世と知った。二十五年にして明暗は表裏のごとく、日のあたる所にはきっと影がさすと悟った。三十の今日はこう思うている。――喜びの深きとき憂いよいよ深く、楽みの大いなるほど苦しみも大きい。これを切り放そうとすると身が持てぬ。片づけようとすれば世が立たぬ。金は大事だ、大事なものが殖えれば寝る間も心配だろう。恋はうれしい、嬉しい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかえって恋しかろ。閣僚の肩は数百万人の足を支えている。背中には重い天下がおぶさっている。うまい物も食わねば惜しい。少し食えば飽き足らぬ。存分食えばあとが不愉快だ。……
青空文庫 Kindle版 p.3

悟りの境地に達して渇愛から逃れられたら平穏に生きられるでしょう。それは万人にとって不可能なことです。

雲雀の鳴くのは口で鳴くのではない、魂全体が鳴くのだ。魂の活動が声にあらわれたもののうちで、あれほど元気のあるものはない。ああ愉快だ。こう思って、こう愉快になるのが詩である。青空文庫 Kindle版 p.5

何も余計なものが混じっていない雲雀(ひばり)の鳴き声。こういうことに感性が働くことは幸せなことです。

こう山の中へ来て自然の景物に接すれば、見るものも聞くものも面白い。面白いだけで別段の苦しみも起らぬ。起るとすれば足が草臥れて、旨いものが食べられぬくらいの事だろう。
しかし苦しみのないのはなぜだろう。ただこの景色を一幅の画として観、一巻の詩として読むからである。画であり詩である以上は地面を貰って、開拓する気にもならねば、鉄道をかけて一儲けする了見も起らぬ。ただこの景色が―― 腹の足しにもならぬ、月給の補いにもならぬこの景色が景色としてのみ、余が心を楽ませつつあるから苦労も心配も伴わぬのだろう。自然の力はここにおいて尊とい。吾人の性情を瞬刻に陶冶して醇乎として醇なる詩境に入らしむるのは自然である。
恋はうつくしかろ、孝もうつくしかろ、忠君愛国も結構だろう。しかし自身がその局に当れば利害の旋風に捲き込まれて、うつくしき事にも、結構な事にも、目は眩んでしまう。したがってどこに詩があるか自身には解しかねる。青空文庫 Kindle版 p.7

このように自然を感じることができれば、人生は豊かなものになるでしょう。しかし、人はどうしても利害を意識した行動に走ってしまいます。 醇乎:じゅんこ 全く混じりけのないさま

芝居を見て面白い人も、小説を読んで面白い人も、自己の利害は棚へ上げている。見たり読んだりする間だけは詩人である。青空文庫 Kindle版 p.7

余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞するようなものではない。俗念を放棄して、しばらくでも塵界を離れた心持ちになれる詩である。青空文庫 Kindle版 p.8

小説を読んでいる時や芝居を見ている時は、利害のない世界に溶け込んでいる。誠にその通りの感があります。

いくら詩的になっても地面の上を馳けてあるいて、銭の勘定を忘れるひまがない。青空文庫 Kindle 版 p.8

当時の西洋の詩についての余の弁です。

独坐幽篁裏、弾琴復長嘯、深林人不知、明月来相照。ただ二十字のうちに優に別乾坤を建立している。この乾坤の功徳は「 不如帰」や「 金色夜叉」の功徳ではない。汽船、汽車、権利、義務、道徳、礼義で疲れ果てた後に、すべてを忘却してぐっすり寝込むような功徳である。青空文庫 Kindle版 p.8-9

王維の詩。 幽篁:ゆうこう 静かな竹藪  長嘯:ちょうしょう 声を長く引いて、詩歌を吟じること。
なるほど安らかな気持ちになる詩です。

淵明、 王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしの間でも非人情の天地に逍遥したいからの願。一つの酔興だ。青空文庫 Kindle版 p.9

余は、人情から解放された心持でこの旅に臨んでいます。

百万本の檜に取り囲まれて、海面を抜く何百尺かの空気を呑んだり吐いたりしても、人の臭いはなかなか取れない。青空文庫 Kindle版 p.9

非人情の旅はそう簡単にはいかないようです。

我らが能から享けるありがた味は下界の人情をよくそのままに写す手際から出てくるのではない。そのままの上へ芸術という着物を何枚も着せて、世の中にあるまじき悠長な振舞をするからである。青空文庫 Kindle版 p.10

600年以上の歴史がある能に漱石はたいへん関心を持っていました。

目次に戻る

茶屋の婆さんの話

2のあらすじ
 余は、茶屋の婆さんから志保田の嬢様の話を聞きました。昔、淵川に身を投げて果てた長良の乙女の話も聞きました。婆さんはこの二人の境遇が似ていると言います。
 余は目的地の那古井に向かいます。久しく前に訪れたことのある所です。

世間話しもある程度以上に立ち入ると、浮世の臭いが毛孔から染込んで、垢で身体が重くなる。青空文庫 Kindle版 p.24

宿泊地の那古井に着く途中、茶屋の婆さんから、志保田の譲様の話と、淵川に身を投げて死んでしまった長良の乙女の話を聞かされます。非人情の旅は始まったばかりです。俗界から完全に離れるのは難しそうです。

目次に戻る

宿での不思議な光景

3のあらすじ
 志保田に宿泊しているのは余一人のみのようで、ひっそりとしています。到着したその夜に余は不思議な光景に出会います。夜中に女が外で歌をうたっていたのです。夜中には誰かが余の部屋に入ってきたようです。

昔し宋の大慧禅師と云う人は、悟道の後、何事も意のごとくに出来ん事はないが、ただ夢の中では俗念が出て困ると、長い間これを苦にされたそうだが、なるほどもっともだ。青空文庫 Kindle版 p.27

夢には人の心が表われます。漱石は自分の夢にたいへん関心があったようです。あるいは、たいへん悩まされていたのかもしれません。漱石の小説にはときどき夢のことが書かれています。『夢十夜』とう作品もあります。

余が今見た影法師も、ただそれきりの現象とすれば、誰れが見ても、誰に聞かしても饒に詩趣を帯びている。――孤村の温泉、――春宵の花影、――月前の低誦、――朧夜の姿――どれもこれも芸術家の好題目である。この好題目が眼前にありながら、余は入らざる詮義立てをして、余計な探ぐりを投げ込んでいる。せっかくの雅境に理窟の筋が立って、願ってもない風流を、気味の悪るさが踏みつけにしてしまった。青空文庫 Kindle版 p.31

夜中に外で誰かが低誦しています。障子を開けて見ると女のようです。何事かと気になって眠ることができません。せっかくの風流がだいなしになってしまいました。 饒に:ゆたかに

睡魔の妖腕をかりて、ありとある実相の角度を滑かにすると共に、かく和らげられたる乾坤に、われからと微かに鈍き脈を通わせる。地を這う煙の飛ばんとして飛び得ざるごとく、わが魂の、わが殻を離れんとして離るるに忍びざる態である。青空文庫 Kindle版 p.33

今の夢とも現実ともつかない情景を、微かな意識をもってとらえようとしています。 乾坤:けんこん

この故に動と名のつくものは必ず卑しい。運慶の仁王も、北斎の漫画も全くこの動の一字で失敗している。動か静か。これがわれら画工の運命を支配する大問題である。古来美人の形容も大抵この二大範疇のいずれにか打ち込む事が出来べきはずだ。青空文庫 Kindle版 p.36

不思議な夜中の出来事があった次の朝、余が風呂から出ると那美(余が泊っている宿の娘)が着物を肩からかけてくれます。余は、那美を画に描くことを想像します。

悟りと迷が一軒の家に喧嘩をしながらも同居している体だ。この女の顔に統一の感じのないのは、心に統一のない証拠で、心に統一がないのは、この女の世界に統一がなかったのだろう。不幸に圧しつけられながら、その不幸に打ち勝とうとしている顔だ。不仕合な女に違ない。青空文庫 Kindle版 p.37

那美の顔の表情が気になります。夜中に低誦していたのは那美でした。不幸な過去の出来事をもつ女です。

目次に戻る

うつくしい那美の不思議な振舞

4のあらすじ
 余が朝風呂に入って部屋に戻ると、眠られずに夜中に書いた十七字の句の下に誰かが鉛筆で句を書き足してあります。
 夜中に外で歌をうたっていたのも余の部屋に入ってきたのも那美でした。

いったい西洋の食物で色のいいものは一つもない。あればサラドと赤大根ぐらいなものだ。滋養の点から云ったらどうか知らんが、画家から見るとすこぶる発達せん料理である。そこへ行くと日本の献立は、吸物でも、口取でも、刺身でも物奇麗に出来る。会席膳を前へ置いて、一箸も着けずに、眺めたまま帰っても、目の保養から云えば、御茶屋へ上がった甲斐は充分ある。青空文庫 Kindle版 p.41

漱石は西洋の文化(食文化も含めて)をそのまま受け入れることができなかったようです。
昔から日本の料理は美しかった。漱石没後100年近く経った平成25年に和食はユネスコ無形文化遺産に登録されました。

余の言葉を洒落と解したのだろう。なるほど洒落とすれば、軽蔑される価はたしかにある。智慧の足りない男が無理に洒落れた時には、よくこんな事を云うものだ。青空文庫 Kindle版 p.46-47

羊羹を乗せた青磁の皿を褒めたとき、余は那美に軽蔑されたような気がします。那美はありふれた女ではありません。

茶と聞いて少し辟易した。世間に茶人ほどもったいぶった風流人はない。広い詩界をわざとらしく窮屈に縄張りをして、極めて自尊的に、極めてことさらに、極めてせせこましく、必要もないのに鞠躬如として、あぶくを飲んで結構がるものはいわゆる茶人である。あんな煩瑣な規則のうちに雅味があるなら、 麻布の聯隊のなかは雅味で鼻がつかえるだろう。廻れ右、前への連中はことごとく大茶人でなくてはならぬ。あれは商人とか町人とか、まるで趣味の教育のない連中が、どうするのが風流か見当がつかぬところから、器械的に利休以後の規則を鵜呑みにして、これでおおかた風流なんだろう、とかえって真の風流人を馬鹿にするための芸である。青空文庫 Kindle版 p.47

茶の湯の形式だけを理解して風流人と思っている人間を見下しています。漱石は軍人もたいへん嫌っていました。 鞠躬如:きっきゅうじょ 身をかがめて、つつしみかしこまるさま。 煩瑣:はんさ こまごまとしてわずらわしいこと。

目次に戻る

床屋の話

5のあらすじ
 余と床屋との会話があります。この床屋は東京から流れてきた者です。志保田の娘さんのことを「あぶねえね」と言います。村の者が言うにはあの女は気狂だと言います。

あの娘さんはえらい女だ。老師がよう褒めておられる」「石段をあがると、何でも逆様だから叶わねえ。和尚さんが、何て云ったって、気狂は気狂だろう。・・・・・」 青空文庫 Kindle版 p.63

寺の坊主と床屋との会話です。「あの娘さん」とは那美のこと。みんなは那美を気狂と言いますが、寺の和尚はえらい女と言っています。那美は寺の和尚のところによく行きます。

目次に戻る

振袖姿の女

6のあらすじ
 余は夕暮の机に向かっています。誰もいないと思われるような静かさの中で、詩人や画客の心のことなどを考えています。あるいは何も考えていません。
 向こう二階の縁側を振袖姿で歩いているきれいな女が目に入ります。

いわゆる楽は物に着するより起るが故に、あらゆる苦しみを含む。ただ詩人と画客なるものあって、飽くまでこの待対世界の精華を嚼んで、徹骨徹髄の清きを知る。霞を餐し、露を嚥み、紫を品し、紅を評して、死に至って悔いぬ。彼らの楽は物に着するのではない。同化してその物になるのである。青空文庫 Kindle版 p.65

事物への執着からの解放は仏教の教えの基本的なものです。真の詩人、画客は物欲から開放されていると漱石は言います。 楽:たのしみ 待対:たいたい 互いに関係し合っていること。 相対的であること。

目次に戻る

湯壺での出来事

7のあらすじ
 余は湯壺に入ってリラックスしています。すると、誰かが湯壺に入ってきました。なんと女でした。ホホホホと鋭く笑いながら女は去っていきました。

どうともせよと、湯泉のなかで、湯泉と同化してしまう。流れるものほど生きるに苦は入らぬ。流れるもののなかに、魂まで流していれば、基督の御弟子となったよりありがたい。青空文庫 Kindle版 p.77

山里の湯壺に一人で入り、こんな心境になれば確かにありがたいと感じるでしょう。

余が平生から苦にしていた、ミレーのオフェリヤも、こう観察するとだいぶ美しくなる。何であんな不愉快な所を択んだものかと今まで不審に思っていたが、あれはやはり画になるのだ。水に浮んだまま、あるいは水に沈んだまま、あるいは沈んだり浮んだりしたまま、ただそのままの姿で苦なしに流れる有様は美的に相違ない。青空文庫 Kindle版 p.77

川に身を投じて水に浮いているオフェリア。英国の美術品の中で最高傑作の一つとされるミレーの画です。

静かな春の夜に、雨さえ興を添える、山里の湯壺の中で、魂まで春の温泉に浮かしながら、遠くの三味を無責任に聞くのははなはだ嬉しい。青空文庫 Kindle版 p.78

よく状況が伝わってきます。こんな経験ができれば現代人の心も癒されるでしょう。

うつくしきものを、いやが上に、うつくしくせ んと焦せるとき、うつくしきものはかえってその度を減ずるが例である。人事についても満は損を招くとの諺はこれがためである。
放心と無邪気とは余裕を示す。余裕は画において、詩において、もしくは文章において、必須の条件である。今代芸術の一大弊竇は、いわゆる文明の潮流が、いたずらに芸術の士を駆って、拘々として随処に齷齪たらしむるにある。青空文庫 Kindle版 p.82

芸術の心はここにあり。 弊竇:へいとう 弊害となる点。欠陥  拘々として:くくとして 物事にとらわれて融通がきかない様  齷齪:あくそく 目先のことにとらわれて落ち着かない様

目次に戻る

青磁や硯の話、満州に出征する久一

8のあらすじ
 志保田の老人の部屋で余はお茶のご馳走になります。相客は観海寺の和尚の大徹です。もう一人は二十四五歳の男久一です。
 みなが青磁や硯のことなどを話しています。同席している久一は二三日のうちに満州に出征する身です。

しかしてその青年は、夢みる事よりほかに、何らの価値を、人生に認め得ざる一画工の隣りに坐っている。青空文庫 Kindle版 p.96

その青年は満州に出征します。同席している余は、余裕をもった一画工です。

目次に戻る

那美は死にたい?

9のあらすじ
 余が部屋で本を読んでいると女が入ってきました。振袖の女も湯壺に入ってきた女も那美でした。
 余が鏡の池に行きたいというと、近々鏡の池に身を投げるかもしれません。浮いているところを綺麗に画にかいてくださいと那美が言います。

「すると不人情な惚れ方をするのが画工なんですね」「不人情じゃありません。非人情な惚れ方をするんです。小説も非人情で読むから、筋なんかどうでもいいんです。こうして、御籤を引くように、ぱっと開けて、開いた所を、漫然と読んでるのが面白いんです」青空文庫 Kindle版 p.99

那美と余との会話です。余の旅はあくまでも非人情の旅です。女に惚れるにも非人情を貫きます。

「誰だか、わたしにも分らないんだ。それだから面白いのですよ。今までの関係なんかどうでもいいでさあ。ただあなたとわたしのように、こういっしょにいるところなんで、その場限りで面白味があるでしょう」青空文庫 Kindle版 p.100

会話の続きです。余の旅先での那美との出会いはその場限りのことです。先がないから苦を伴わない出会いです。あくまでも非人情の旅先の出来事です。

目次に戻る

鏡の池でまた那美に驚かされる

10のあらすじ
 余は鏡の池に行きました。那美が池に浮いているところの画を考えます。
 馬子の源兵衛が来て、志保田の昔の譲様がここに身投げした話をします。志保田の家には代々気狂が出来ると言います。
 池沿いの高い岩の上に那美が現れます。余はまたこの女に驚かされます。

足がとまれば、厭になるまでそこにいる。いられるのは、幸福な人である。東京でそんな事をすれば、すぐ電車に引き殺される。電車が殺さなければ巡査が追い立てる。都会は太平の民を乞食と間違えて、掏摸の親分たる探偵に高い月俸を払う所である。青空文庫 Kindle版 p.107

自然の中にいて、そこに長く留まっていられれば確かに心平穏で幸福感を感じられます。明治時代には東京は既にそれとは程遠い世界になっていたのでしょう。漱石は警察がかなり嫌いだったようです。もちろん今の警察と当時の警察は全く違うものです。 掏摸:すり

冷然として古今帝王の権威を風馬牛し得るものは自然のみであろう。自然の徳は高く塵界を超越して、対絶の平等観を無辺際に樹立している。青空文庫 Kindle版 p.107-108

人によって取り扱いを変えず、権威と無関係でいる自然。自然は時には恐ろしいものですが、ありがたいものです。 風馬牛:互いに無関係であること。そのような態度をとること。

憐れは神の知らぬ情で、しかも神にもっとも近き人間の情である。御那美さんの表情のうちにはこの憐れの念が少しもあらわれておらぬ。そこが物足らぬのである。ある咄嗟の衝動で、この情があの女の眉宇にひらめいた瞬時に、わが画は成就するであろう。青空文庫 Kindle版 p.112

那美の表情に欠けている憐れをいつ余は見ることができるのか。余は、憐れの念が全く表れていない女は画にならないと感じています。

目次に戻る

観海寺の和尚から聞いた那美の話

11のあらすじ
 余は、足の向くままに宿を出て観海寺の石塔の下に出ました。石段を登り始めます。庫裏に入り、和尚から那美の話を聞きました。

こうやって、美しい春の夜に、何らの方針も立てずに、あるいてるのは実際高尚だ。興来れば興来るをもって方針とする。興去れば興去るをもって方針とする。句を得れば、得たところに方針が立つ。得なければ、得ないところに方針が立つ。しかも誰の迷惑にもならない。これが真正の方針である。屁を勘定するのは人身攻撃の方針で、屁をひるのは正当防禦の方針で、こうやって観海寺の石段を登るのは随縁放曠の方針である。青空文庫 Kindle版 p.119-120

余は、観海寺に向かう石段を登りながら、昔、鎌倉の円覚寺の石段を登る途中ですれ違った坊主のことを思い出します。ただ「何もありませぬぞ。」と言い捨てて石段をすたすたと下っていった所作をうれしく感じたのです。 随縁放曠:ずいえんほうこう 因縁にとらわれずに自由に振る舞うこと

「いやなかなか機鋒の鋭どい女で――わしの所へ修業に来ていた泰安と云う若僧も、あの女のために、ふとした事から大事を窮明せんならん因縁に逢着して――今によい智識になるようじゃ」青空文庫 Kindle版 p.128

那美のことを人々は気狂だと言っていますが、那美が通っている観海寺の和尚は、那美のことを機鋒の鋭い女と言います。
観海寺にいた若僧が那美に手紙を書いたことが発端になり、その若僧がこの寺を去ることになったという事件がありました。

目次に戻る

那美と元夫

12のあらすじ
 余は海沿いの草原に寝ころんでいます。雑木の間から一人の男が現れます。次に那美が現れました。男は那美から財布を受け取りました。男は那美の元夫で満州に行くといいます。
 余と那美が帰る途中、那美の兄の家に立ち寄ります。那美は叔父さんからの餞別だと言って白鞘の短刀を久一に渡します。久一は満州に出征するのです。

こうやって、名も知らぬ山里へ来て、暮れんとする春色のなかに五尺の瘦軀を埋めつくして、始めて、真の芸術家たるべき態度に吾身を置き得るのである。一たびこの境界に入れば美の天下はわが有に帰する。尺素を染めず、寸縑を塗らざるも、われは第一流の大画工である。青空文庫 Kindle版 p.130

余は、人情、俗世間から離れて初めて芸術家たる自分を認めるのです。 瘦軀:そうく やせた身体  尺素:せきそ 短い手紙  寸縑:すんけん わずかな絹の布地

こう云う境を得たものが、名画をかくとは限らん。しかし名画をかき得る人は必ずこの境を知らねばならん。青空文庫 Kindle版 p.131

事物への固執から解放され、自然の中に我が身を放り投げたとき、人はこのような境地に達するのでしょう。

余は常に空気と、物象と、彩色の関係を宇宙でもっとも興味ある研究の一と考えている。色を主にして空気を出すか、物を主にして、空気をかくか。または空気を主にしてそのうちに色と物とを織り出すか。画は少しの気合一つでいろいろな調子が出る。この調子は画家自身の嗜好で異なってくる。それは無論であるが、時と場所とで、自ずから制限されるのもまた当前である。青空文庫 Kindle版 p.131

「空気と、物象と、彩色の関係」という絵の世界観。これを意識するといつもとは違った絵画の鑑賞ができそうです。

あの女を役者にしたら、立派な女形が出来る。普通の役者は、舞台へ出ると、よそ行きの芸をする。あの女は家のなかで、常住芝居をしている。しかも芝居をしているとは気がつか ん。自然天然に芝居をしている。あんなのを美的生活とでも云うのだろう。あの女の御蔭で画の修業がだいぶ出来た。青空文庫 Kindle版 p.133

余は那美に何度も驚かされています。那美の行動は、余の心の中にある画を刺激し続けているようです。

現実世界に在って、余とあの女の間に纏綿した一種の関係が成り立ったとするならば、余の苦痛は恐らく言語に絶するだろう。余のこのたびの旅行は俗情を離れて、あくまで画工になり切るのが主意であるから、眼に入るものはことごとく画として見なければならん。能、芝居、もしくは詩中の人物としてのみ観察しなければならん。この覚悟の眼鏡から、あの女を覗いて見ると、あの女は、今まで見た女のうちでもっともうつくしい所作をする。自分でうつくしい芸をして見せると云う気がないだけに役者の所作よりもなおうつくしい。青空文庫 Kindle版 p.133

那美のお陰で画の修行はできた。しかし、那美と一種の関係が成り立てば余は苦痛を受けることになる。あくまでも那美は余の非人情の旅の中の一場面で終わらなければなりません。

男は手を出して財布を受け取る。引きつ引かれつ巧みに平均を保ちつつあった二人の位置はたちまち崩れる。女はもう引かぬ、男は引かりょうともせぬ。心的状態が絵を構成する上に、かほどの影響を与えようとは、画家ながら、今まで気がつかなかった。
二人は左右へ分かれる。双方に気合がないから、もう画としては、支離滅裂である。青空文庫 Kindle版 p.141

余は、那美が満州に行く元夫に資金を渡す場面を目撃します。絵の対象となる者の心的状態が絵の成立を左右することに余は気付きます。
那美はまだ絵になりません。

「何しに行くんですか。御金を拾いに行くんだか、死にに行くんだか、分りません」
この時余は眼をあげて、ちょと女の顔を見た。今結んだ口元には、微かなる笑の影が消えかかりつつある。意味は解せぬ。「あれは、わたくしの亭主です」青空文庫 Kindle版 p.143

元夫が去った後の余と那美の会話です。余がその場にいたことに那美は気づいていました。この時の表情でもまだ那美は絵になりません。

目次に戻る

那美に表れた初めての表情

13のあらすじ
 志保田の老人、那美、那美のお兄さん、源兵衛と余は、久一さんを送り出します。舟の中で「先生、わたくしの画をかいて下さいな」と那美が言います。
 駅のプラットホームで、「死んで御出で」と那美が久一さんに云います。
 那美の元夫もその汽車に乗っていました。那美は茫然とその汽車の出発を見送ります。

人は汽車へ乗ると云う。余は積み込まれると云う。人は汽車で行くと云う。余は運搬されると云う。汽車ほど個性を軽蔑したものはない。文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によってこの個性を踏み付けようとする。青空文庫 Kindle版 p.151

文明の発展とともに尊重されるようになった個性。しかし、個性が重んじられても同時にそれを規制する枠組みも作り上げられます。個性は尊重されるべきと言いながら他人を攻撃する現代。現代は孤独感を持った人の集合体のようです。文明は発展するもの。同時に自然は破壊されるもの。自然と接して心の安らぎを感じるという人々の感覚も破壊されつつあるようです。

文明は個人に自由を与えて虎のごとく猛からしめたる後、これを檻穽の内に投げ込んで、天下の平和を維持しつつある。動物園の虎が見物人を睨めて、寝転んでいると同様な平和である。檻の鉄棒が一本でも抜けたら―― 世はめちゃめちゃになる。青空文庫 Kindle版 p.152

現代はどうなのか。警察はそうではないが、むしろ普段は普通の人が、簡単に個人を攻撃する世の中になっています。 檻穽:かんせい 檻と落とし穴

余は汽車の猛烈に、見界なく、すべての人を貨物同様に心得て走る様を見るたびに、客車のうちに閉じ籠められたる個人と、個人の個性に寸毫の注意をだに払わざるこの鉄車とを比較して、――あぶない、あぶない。気をつけねばあぶないと思う。現代の文明はこのあぶないで鼻を衝かれるくらい充満している。おさき真闇に盲動する汽車はあぶない標本の一つである。青空文庫 Kindle版 p.152

文明の発展は常に危険を孕んでいます。AIは一般社会にどんどん浸透してきています。AIのことが何も分からない人、いや、分かっている人でも、あぶない、あぶない。

車輪が一つ廻れば久一さんはすでに吾らが世の人ではない。遠い、遠い世界へ行ってしまう。その世界では煙硝の臭いの中で、人が働いている。そうして赤いものに滑って、むやみに転ぶ。空では大きな音がどどんどどんと云う。これからそう云う所へ行く久一さんは車のなかに立って無言のまま、吾々を眺めている。吾々を山の中から引き出した久一 さんと、引き出された吾々の因果はここで切れる。もうすでに切れかかっている。車の戸と窓があいているだけで、御互の顔が見えるだけで、行く人と留まる人の間が六尺ばかり隔っているだけで、因果はもう切れかかっている。青空文庫 Kindle版 p.153-154

満州の戦地に赴く久一さん。生きて帰ってこないだろうと誰もが思っています。悲しく、憐れな場面です。

野武士の顔はすぐ消えた。那美さんは茫然として、行く汽車を見送る。その茫然のうちには不思議にも今までかつて見た事のない「 憐れ」が一面に浮い ている。「それ だ! それ だ! それが出れば画になりますよ」と余は那美さんの肩を叩きながら小声に云った。余が胸中の画面はこの咄嗟の際に成就したのである。 青空文庫 Kindle版 p.154

戦地に向かう久一さんと同じ汽車に那美の元夫も乗車していました。汽車を見送っているときの那美の表情に余は初めて憐れを認めました。

目次に戻る

タイトルとURLをコピーしました